2009年01月10日

池田大作 その行動と軌跡 第2回 若き指導者は勝った

 手塚治虫の回想

 昭和二十四年(一九四九年)五月、池田大作青年は、雑誌「冒険少年」の編集長に就任した。
 当時、十数誌の少年雑誌が創刊・復刊され、覇を競いはじめてところだった。
 売れっ子作家の仕事場には連日、各社の担当者が足を運び、今か、今かよ仕上がりを待ちかまえる。
 小松崎茂は、日本を代表するイラスト作家である。「冒険少年」にも、口絵や絵物語を描いていた。
 画家の根元圭介が小松崎のもとに弟子入りしたのは昭和二十六年だった。思い出話を、よく聞かされた。
 「戸田城聖という人が、何度か駒込のアトリエに足を運んできた。見るからに利発そうな青年が一緒だった」
 アトリエは東京の巣鴨駅と駒込駅の間の霊園の近くにあった。編集者のたまり場になっていて、食事にあずかったり、ひたすらタバコを吹かしたり、活気を呈していた。
 「皆が騒いでいる中で、じっと静かに絵の完成を待っている。知的で折り目正しい。
 このハンサムな若者は、他の連中と、ちょっと違っていた」
 この「ハンサムな若者」こそ池田先生だった。すぐに、うち解けた。
 「おれは大好きだった。一時間も話こんだことがある。キリスト教と仏教のどちらがすぐれているか。論争したこともあったよ」



 「冒険少年」は、当時、大変に注目された雑誌だった。
 画家の根本もバックナンバーを大切に保管していて、雑誌ブームを支えた仲間と今でも見せ合うことがある。
 以前、漫画家・手塚治虫の知られざる一面が明かされたことがあった。
 昭和三十四年ごろである。
 東京・初台のスタジオで、原稿の締め切りを終えた手塚が、アシスタントたちに語った。「みんな、以前『冒険少年』という雑誌があったのを知ってたかい」
 首を横に振る一同。「それじゃあ、見せてあげよう」
 二階から数冊の雑誌を抱えて降りてきた。目を輝かせながら、そっとページを繰る。
 「この本から、何か特別な情熱みたいなものを感じたよ」
 手塚は終戦後、大阪大学医学部に通うかたわら“赤本”と呼ばれる単行本を描いて「天才漫画家」と注目されはじめていた。
 「雑誌の連載も魅力的だった。でも、この『冒険少年』は、僕が上京したころには、もうなくなっていたんだ」
 まるで昨日のことのように、残念がる。
 「あのころは、子供向けの雑誌が続々と創刊されていてね。『冒険少年』は、ぜひ描きたい雑誌だった」



 手塚治虫をして“この雑誌には、ぜひ描きたい”と言わしめた「冒険少年」。
 その編集長こそ池田青年であった。編集手法に取り立てて秘密があったわけではない。一軒一軒、地道に作家宅を訪れ、執筆陣を開拓していった。他の雑誌と違ったところがあるとすれば、その情熱と誠実、なによりも限りない読者への愛情をあげるほかない。
 日記に熱意を綴っている。
 「少年よ、日本の少年よ。世界の少年達よ。願わくは、常に、一人も洩れなく明朗であれ、勇敢であれ、天使の如くあれ」
 昭和二十五年の新年号には、詩人の西條八十、探偵小説の横溝正史も筆を執ることになっていた。


 悠然たる恩師

 昭和二十四年、中小の出版会社に、逆風が吹き荒れていた。
 まだアメリカの占領下である。人々の生活に暗い影を落としていたのが、出口の見えないインフレだった。
 日本を統治していてGHQ(連合国軍総司令部)は「ドッジ・ライン」と呼ばれる政策で、経済を安定させようとした。
 その原則の一つに「資金貸し出しの統制」という項目があった。
 政府レベルから中小の金融機関にいたるまで、極端な融資の引き締めが行われたのである。
 今風に言えば「貸し渋り」だった。中小企業の金詰りは日ごとにつのり、目をおおうばかりの惨状を呈した。
 日本正学館とて、その例外ではない。



 その日、十月二十五日は火曜日であった。朝から雲が空をおおい、やがてポツポツと落ち始めた秋雨が夜まで降りつづいた。
 朝九時前、二階にいる戸田城聖のもとに日本正学館の全社員が集められた。
 大手出版社が次々と仕掛けてくる大雑誌との競合で、日本正学館の経営は、すでに身動きがとれなかった。
 まず売れ行きが鈍ったのは単行本である。次に女性むけの雑誌「ルビー」も採算を割った。
 後は将棋倒しである。
 かろうじて持ちこたえてきた「冒険少年」だったが、返本率は上がり続けた。「少年日本」と改題してもなお、十冊のうち七、八冊は戻ってくる。
 作家に支払う原稿料は、とどこうりがちになり、紙問屋や印刷会社も、よそよそしくなってきた。
 戸田城聖はキッパリと宣言した。
 「雑誌は全て休刊する。誰でも下すにちがいない、当然すぎる結論だよ」
 全魂こめて社員を励ましたが、みな慌てふためいた。明日から自分の生活は、どうなるのか・・・。
 虚脱感が押し広がる事務所で、池田青年は師の姿だけを見つめていた。
 休刊を告げた後は、ふだんとまったく変わらない。「おい、一局どうだ」。来客をつかまえ、愉快そうに将棋をさしている。
 ―何という人だ。なにがあろうとも変わらない。ぶれない。ならば自分もまた・・・。
 さっそく活動を再開した。
 「武蔵野へ画料を届けたのち、銀座で凸版を受け取って参ります!」
 胸を張って残務処理に出かけた。
 ―今年の冬も、外套は、なしだな。
 心につぶやいたとき、すでに腹は決まっていた。
 「少年日本」は十二月号が最終号になった。



 出版不況。インフレ。貸し渋り。
 三重にたたみかける大波である。おぼれぬように進む日本正学館は、この年のなかばごろから、水面下で打開策を講じていた。
 資金を確保するために、戸田城聖は自ら金融機関を設立する計画だった。
 「時代が時代だ。経済面にも力を入れなければいけない」と、幾たびとなく口にしていた。
 六月のある日、ひょこりとあらわれた岩崎洋三が、組合のあっせん話をもちかけてきた。
 岩崎は戦前の創価教育学会の中で実業家たちのグループにいたが、戦時中の弾圧によって早々に退転していた。
経済人だけあって利にさとい。平気で寝返るタイプであった。戦後もまた、かつての変節などなかったような顔で、戸田のもとへ出入りしていた。
 岩崎が言う組合とは、東京建設信用購買利用組合のことである。
 かつて東京都の土木局長をしていた元役員がその理事長をしていた。収益構造を改善するために、協力者を探していたのである。
 いわゆる産業組合法にもとづく「購買利用組合」を、金融部門の「信用組合」に転換しようという算段だった。戸田はとりあえず理事長に会ってみた。少し話をしただけで、彼の無能ぶりにあきれた。
 元役人らしいというか、武士の商法さながらの放漫経営である。
 それでも実情を冷静に調べたうえで経営を引きうけることを決断した。
 それまで通産省の監督下にあった組合が、金融部門をあつかう信用組合へと衣替えする。それには大蔵省の認可が必要だった。
 官僚だった理事長の見通しは甘く、ようやく通産・大蔵両省の印鑑がそろったのは、東京の街を秋のとばりがつつむころだった。
 ここに東京建設信用組合が、戸田城聖を専務理事として発足する。
 事務所は日本正学館と同じ西神田におかれた。



 時代と背景

 昭和24年、戦後の混乱は続き、国鉄をめぐる「下山事件」「三鷹事件」などが相次いだ。騒然とした世相にあって、名曲「青い山脈」が大ヒットする。若き池田編集長は、この歌を作詞した西條八十のも体当たり。「どうか少年たちに偉大な夢を与えきれる詩を書いてください!」
 時には、自ら山本伸一郎のペンネームで「ペスタロッチ」の偉人伝も書き下ろした。


2009-1-6 聖教新聞

2009年01月05日

池田大作 その行動と軌跡 第1回 若き指導者は勝った

 池田青年の十年

若き日の池田先生.bmp
 総武線の水道橋駅で降り、東京・千代田区の神田に向かった。
 有名な東京ドームを背にして、水道橋西通りを南に歩く。いま地図で見ると距離にして五百メートルほどか。
 西神田三の八の一。ブルーに輝く窓ガラスが印象的な高層ビルで占められている。
 ここに「日本正学館」の小さな看板を掲げた出版社があった。近くに日本橋川が流れている。
 昭和二十四年(一九四九年)の寒い一月三日の月曜日だった。
 池田大作青年は、恩師である戸田城聖第二代会長(当時・理事長)の経営する日本正学館へ初出勤した。
 前日に二十一歳の誕生日を迎えたばかりである。この日の東京の天候は小雨時々晴れであった。
 現在は日本橋川の上を覆うように、高速道路が走っている。高いビルも高速道路もなかった六十年前の正月。日本橋川は、冬空に舞う色とりどりの凧をながめていたはずである。

 当時の池田青年を知る一人に評論家の塩田丸男がいる。
 中国から復員した塩田は、縁あって「日本婦人新聞社」に勤める。その編集室が、実は日本正学館の三階にあったというのである。
 塩田は取材班のインタビューに快く応じてくれた。
 「三階というと聞こえはいいが、実際は屋根裏で物置に使っていたところにちょっと手を入れただけ。広さ? 広さなんてものではなく、“狭さ”と言ったほうがいい」
 日本婦人新聞社の看板は一階の戸口のわきに小さくぶら下がっていた。いっしょに並んでもうーつ、達筆な文字で創価学会の看板が掲げられていたという。
 「新聞記者はたいていズボラで朝も遅い。私がのそのそと出勤していくころには、一階の創価学会の部屋は大勢の人たちが活発に動きまわっていて、その間をくぐりぬけて、こそこそと三階の屋根裏へ上っていったものです」
 西神田の旧学会本部。
学会本部 日本正学館2F.bmp1階.bmp2階.bmp
 二階までは、関係者の記憶から間取り図(5面)をほぼ正確に示せるが、その上に、さらに三階があったことは、あまり知られていない。
 「創価学会が大家さんで、こちらは屋根裏の住人なんだから腰を低くしなければならないのに、新聞記者は図々しい連中ばかりで、私もあまり頭を下げなかったように思います」
 そんななかで、大変印象に残っているのが、池田青年だった。いつも「おはようございます!」「仕事のほうはどうですか?」と、気さくに声をかけてくれた。
 「大きな声で、明るい顔色で、元気いっぱいの目立つ青年でした。
 まさか、こんなに偉くなられるとは!
 その後、直接お目にかかる機会はありませんが、私のなかにある『池田大作』は今でも、あの元気な、明るい大作青年です!」

 日本正学館は池田SGI会長の人生の軌跡を追ううえで、最初のキーポイントとなる場所である。
 二十一歳から日本正学館で働きはじめ、三十歳で永訣するまで、ちょうど十年間、戸田会長に師事している。
 これより十年早ければ、第二次世界大戦の戦雲が二人を裂き、十年遅ければ、戸田会長はすでにいない。不思議な巡り合わせの十年である。
 二十一歳から三十歳。この十年こそ、池田会長の人間形成にとって決定的な歳月であったといってよい。


 橋本忍のインタビュー

 映画「人間革命」の続編を制作するにあたり、脚本を手けた橋本忍が原作者・池田会長に聞いている。「初めて日本正学館に出勤した日のことを教えてください」
 以下は「橋本インタビユー」によるところの会長自身の述懐である。
 一月三日は底冷えのする日だった。午前八時、弁当を手にして出社したが、仕事始めの前で、神田に人影は、まばらだった。
 この日を選んだのは戸田会長に「来年からこい」と言われていたからで、ほかの理由はない。少し早いかと思ったが、ちょうど月曜日。新しいスタートに決めた。
 事務所のガラス戸をたたいたが、だれもいない。あらかじめカギを渡されていたので中へ入った。
 コンクリート打ちの玄関を入るとカウンターがあり、一階が事務所、二階の一部が編集室となっていた。奥の階段を三段ほど上がったところに中二階がある。
 火の気もなく、足下から冷気が伝わる。掃除をして先輩社員を待つことにした。バケツの水で雑巾をしぼる。みっちり一時間かけ、机や窓をふいたが、だれも来ない。
 どうなっているのか。この会社は大丈夫なのか。初出勤ながら心配した。
 十時をすぎたころ、ガラッと音をたてて正面のガラス戸が開いた。
 「おめでとうございます!」
 顔をあげると、立っていたのは電報の配達人だった。
 戸田先生あての電報を受け取った。急ぎの案件にちがいない。ご自宅まで持っていくことにした。
 事務所の戸締まりをして、当時、港区の芝白金台町にあった戸田宅へ向かった。
 玄関で用向きを伝えると、年配の女性が「ご苦労さま」と錠を開けてくれた...。
 
短い回想だが、いくつかの興味深い点がある。
 朝が早く、出社が早い。きれい好き。機転がきく。受け身で構えるのでなく、すぐさま行動に打って出る。
 たった半日ほどのエピソードだが、池田会長の人となりを物語っている。
 一方、新入社員を採用していながら「来年から来い」の一言ですませ、出勤日も定めなかった戸田会長...。
 時代が時代だったとはいえ、いかにも豪放な人柄が浮かび上がってくる。
 二人の師弟関係とは、つまりは、このような間柄だったとも思える。
 つまり師が何かを決め細かく指示するのではなく、根本の大綱のみを示す。
 むしろ弟子の側が細目を定め、行動し、すべてをグイグイと具体化していく。初出勤の日にして、すでに師弟の命運は決定づけられていたかのようである。
 この時点での池田青年は、決して宗教、信仰というものに納得していたわけではなかった。
 「日蓮」と聞くと、思い浮かぶ原風景がある。
 団扇太鼓をドンドン打ち鳴らしながら、大声で題目を唱え、町中をねり歩く信徒の一団 ─ 。
 少年時代に見た光景は、宗教への無知や盲信などを連想させた。
 宗教というものにありがちな視野のせまさ、独善性。
 仲間うちにしか通じない、閉ざされた言語感覚や、教祖を頂点にしたピラミッド形の息苦しい上下関係。
 多くの宗教団体がおちいりやすい点である。
 しかも、戦前の日本は国家神道を精神的な柱に立てて破局した。池田青年ならずとも、宗教は、こりごりであったろう。
 入会後も、なんとか自らの運命から免れないものかと一年間ほど悩み、抗っている。
 それは、小説『人間革命』第三巻「漣」の章で告白している。
 夏に静岡で開かれた学会の講習会。まわりは騒がしく、どうも、とけ込めない。伝統的な儀式も、しつくりこない。ひとりギリシャの詩を口ずさみ眠りについた...。
 後年の回想。
 「宗教、仏法のことが理解できて、納得したのではなかった」
 「宗教には反発しながらも、戸田城聖という人間的な魅力に対しては、どうすることもできなかった」


 神田の街角で

 これほど強い宗教の負のイメージをぬぐい去った戸田城聖という人物とは?
 作家の西野達吉は述べている(『伝記 戸田城聖』)。
 「あるものには“受験の神様”にみえ、あるももにはあぶなっかしい素人事業家にみえ、あるものには山師ふうな法螺ふきのようにもみえたりして、出会った多くの人の記憶にさまざまな貌をのこしている」
 戸田会長と接した人ごとに「さまざまな貌」があるのだという。
 受験の神様。
 私塾「時習学館」で使っていたプリントをまとめた『推理式指導算術』が百万部を超えるベストセラーになった。
 事業家。
 神田淡路町にあった印刷工場を手に入れ、出版事業へ。
 作家・子母沢寛の選集を発刊するために「大道書房」という会社もつくった。
 戦前、十七の会社があり、さらに吸収する予定になっていた。
 しかし、戦争ですべてが狂い、残ったのは二百数十万円の負債だった。
 ニックネームは「雲雀男」。低い空からヒバリのように、高く舞いあがる。たしかに徒手空拳から事業をおこす手腕にすぐれていた。
 上京まもないころ、同郷の友人たちと自炊生活をした。
 渋谷・道玄坂の露店で下駄を売ったり、保険の外交員をやって生活をしのいだ。下駄の緒は自ら作った。
 結婚まもない妻もカツオ節の行商までやったという。そこから一代の財をなした。
 以下、余談である。
 ほかにもユニークな教育事業を手がけた。
 昭和初期、進学を希望する小学生を集め、「東京府綜合模擬試験」を開く。
 受験料は一人五十銭。今日の貨幣価値に直せば、およそ千円になるだろうか。
 数千人が受け、答案の返却方法にも、なかなかの工夫があった。
 次回の試験日に返し、上位百番までは氏名と学校名を公表する。あとは受験番号のみとした。志望校を決める、またとない目安である。大いに人気を博したという。

 宗教への抵抗がある青年。さまざまな貌をもっている宗教者 ― 。では、この二人が稀有の師弟関係を結びえた理由とは。
 ひとつに戸田会長は、いわゆる抹香臭い人物ではない。
 俗世のチリひとつない聖人君子などではなく、戦後の荒波のど真ん中で、抜き手を切って泳いでいる。
 法華経の講義もおもしろい。善男善女を煙に巻く、おごそかな説法ではない。
 金襴の袈裟衣で幻惑させるどころか、夏場など、もろ肌脱いで法を説く。
 生活法のようであったり、哲学論であったり、ときに落語家も顔負けのユーモアであったりと、千変万化の興趣に富んでいた。
 ときおり、度の強いめがねを外し、御書に顔をこすりつけるように読んだ。
 講義が終わると、参加者と家路につく。師を囲む人の輪は、にぎやかだった。
 神田の酒屋に寄ることもあった。かまぼこ屋の隣にあり、軒下に縁台がある。
 そこに腰かけ、気心の知れた連中とコップ酒。塩をつまみに「きょうは金がないから一杯ずつだぞ」。ぐいっとあおり、駅に向かった。戸田会長が“一杯やる”相手は一部の壮年だけである。


 名編集者の才能

 そんな上機嫌な恩師を池田青年は遠巻きに見守った。
 戸田宅は目黒駅に近い。
 住所は港区だが“目黒の戸田先生のお宅”と言われたゆえんである。
 山手線で目黒までの車中、吊り革につかまり、会長は講義の続きを語った。みな、群がるように聞いた。品川まで行く池田青年は、目黒でおりる師を最敬礼で見送った。
 仕事の上でも二人は強く結ばれ、師弟は運命を共にしていた。
 なによりも、池田青年は「日本正学館」の仕事が好きだった。読書家であり、元来はジャーナリズムの世界に身を置くことを望んでいた。
 後生、ジャーナリスト志望の青年に語っている。
 「本当は新聞記者になりたかった。それが戦争のため叶わなかった。私も戦争犠牲者の一人だ」
 長い間、神田は出版界の中心地だった。
 日本正学館の右隣も謄写版の印刷所で、左隣は製本会社だった。どの角を曲がっても、製本所や印刷所の看板が目に飛び込んでくる。
 日本中が活字に飢えている時代には、日が暮れても工場から、たえまなくガッチャン、ガッチャンと機械音がなり、印刷物が積み上げられた。風のない日など、路地裏にインクのにおいが、ふと立ちこめる。
 貸本屋の主が、仕入れた本を風呂敷に包んで背負っている。喫茶店では、編集者が作家と打ち合わせしていた。
 この街で働くこと自体が大きな喜びだったといえよう。

 「冒険少年」(のちに「少年日本」と改題)は日本正学館の主力雑誌である。編集兼発行人は戸田城聖。
 名編集者たちの自伝、伝記類を読むと分かることだが、そもそも編集長とは、自分の我がままを押し通すのが仕事である。鬼編集長ほどアクが強く、妥協しない。
 部下の編集者に求めるものは、一にスピード、二に正確さである。
 締め切りに間に合わなければ、すべてはゼロである。たとえ間に合っても、ミスが活字になることほど恥ずかしいものはない。
 戸田会長は、仕事に厳しかった。ささいなミスも見逃さない。百雷のごとき叱咤が下った。「私から逃げたいなら、逃げろ!ついて来るならば、ついて来い!」
 池田青年は必死で食らいついた。
 戸田会長も編集者としての池田青年の才能を早くから見抜いていた。
 一つの企画をまかせると、つねに的を射た作品ができあがってくる。スピードがある。しかも丁寧だった。
 編集業務には、常に修羅場がつきまとう。
 たとえば印刷に回す直前の大幅な直し。校了まで、せっぱつまった瀬戸際に、おどおどするタイプは向かない。
 池田青年は土壇場に強かった。熱くなりがちな場面ほど冷静沈着に判断できる。
 五月には早くも敏腕を買われ、「冒険少年」の編集長をまかされたのである。


 
 時代と背景

 「私は、やがてルビコンを渡った」(池田大作著『私の履歴書』)。昭和22年8月14日、蒲田の座談会で戸田城聖と出会い、入会(同24日)するが、一緒に働きはじめるまでの葛藤を古代ローマの故事にたとえている。
 翌23年秋、法華経講義を受講してまもなく、日本正学館入りを打診され「一も二もなく『お願いします』と即座に答えた」(同)。大みそか、蒲田工業会を円満退社。初出動は、その3日後のことだった。賽は投げられたのである。


 2009-1-1 聖教新聞
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へスカウター : 人間主義の旗を!
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。