2012年06月20日

仏とは戦い続ける人

御書とともに

【御文】
 夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり、もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ (上野殿後家尼御返事 P1504)

【通解】
 さて、浄土といっても地獄といってもほかにあるのではない。ただ我らの胸中にあるのである。これを悟るのを仏といい、これに迷うのを凡夫という。これを悟ることができるのが法華経である。したがって、法華経を受持する者は地獄即寂光と悟ることができるのである。

同志への指針
 「仏」とは、自分を離れた特別な存在ではない。自他共の生命が尊極であることを信じて、この現実社会のなかで「戦い続ける人」のことである。
 「仏」と「凡夫」との違いは、自身の胸中に宇宙大の可能性があることを、確信できるかどうかである。その一点に目覚めれば、どんな厳しい環境でも屈しない。今いる場所を寂光土と輝かせていけるのだ。

 まずは、自分の仏性と可能性を信じれる自分になる。自分に頼る。

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2009年09月28日

鯖さんの 「毎日御書を!」 への感謝状

 毎日御書に触れることって意外と難しいと思うのは私だけでしょうか?

 そんなお悩みの方へ朗報があります(笑)


 ジャジャーン! 毎日御書を! です!

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 さらに! すばらしいコメントまで付いてきます!

 さ・さらに! 鯖板にて、JunkDark さんによる通解がー!

 さ〜気になるお値段ですがー、な・なんと〜! 〇円!!!


 いや〜いたせりつくせりですね〜!  


 皆さんも是非登録してくださいな!
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報恩抄

【御文】
 
 日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだひろまらず一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず日蓮一人南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり、例せば風に随つて波の大小あり薪によつて火の高下あり池に随つて蓮の大小あり雨の大小は竜による根ふかければ枝しげし源遠ければ流ながしというこれなり、周の代の七百年は文王の礼孝による秦の世ほどもなし始皇の左道によるなり、日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ、此の功徳は伝教天台にも超へ竜樹迦葉にもすぐれたり、極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか、是れひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず時のしからしむる耳、春は花さき秋は菓なる夏はあたたかに冬はつめたし時のしからしむるに有らずや。
(御書P328・16行目〜P329・7行目)

【通解】

 日本から漢土(中国)、月氏(インド)、そして全世界において、仏法の智慧がある人と、そうでない人を分け隔てることなく、一人一人がみんな一緒に他の修行を捨てて、南無妙法蓮華経と唱えるべきである。
 このことは、いまだ広まっていない。全世界の中で、釈尊の入滅後、二千二百二十五年の間、一人も唱えなかったのである。ただ日蓮一人が、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と、声も惜しまず唱えているのである。
 例えば、風の強さにしたがって波の大小がある。薪の量によって炎の高下がある。池の深さにしたがって蓮の大小がある。雨の大小は竜の大きさによる。「根が深ければ枝が茂る。源が遠ければその流れが長い」といわれるのは、このことである。
 中国の周の時代が七百年続いたのは、文王の礼孝が厚かったためである。秦の世がたちまち滅びたのは、始皇帝の行いが非道だったためである。
 日蓮の慈悲が広大であるならば、南無妙法蓮華経は万年の先の未来までも流布するであろう。日本国の一切衆生の盲目を開く功徳がある。無間地獄への道を塞いだのである。
 この功徳は伝教や天台にも超過し、竜樹や迦葉よりもすぐれている。
 極楽百年の修行の功徳に及ばない。正法・像法二千年の弘通は、末法の一時の弘通に劣るであろう。
 これは、ひとえに日蓮の智慧がすぐれているからではなく、時がそうさせるのである。春は花が咲き、秋は果実がなる。夏は暖かく、冬は冷たい。これらも時がそうさせることではないか。
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2009年03月01日

佐渡御書 9

 これはさてをきぬ日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がかくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし、修羅が仏は十八界我は十九界と云ひ外道が云く仏は一究竟道我は九十五究竟道と云いしが如く日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし。
 南無妙法蓮華経。
 文永九年太歳壬申三月二十日            日蓮花押   日蓮弟子檀那等御中

  佐渡の国は紙候はぬ上面面に申せば煩あり一人ももるれば恨ありぬべし此文を心ざしあらん人人は寄合て御覧じ料簡候て心なぐさませ給へ、世間にまさる歎きだにも出来すれば劣る歎きは物ならず当時の軍に死する人人実不実は置く幾か悲しかるらん、いざはの入道さかべの入道いかになりぬらんかはのべ山城得行寺殿等の事いかにと書付て給べし、外典書の貞観政要すべて外典の物語八宗の相伝等此等がなくしては消息もかかれ候はぬにかまへてかまへて給候べし。
(御書P960・17行目〜P961・11行目)


(通解) このことはここでは置いておく。それよりも、日蓮を信じているようであった者たちが、日蓮がこのような身になると疑いを起こして法華経を捨てるだけではなく、かえって日蓮を教え諭して自分は賢いと思っている。こうした愚か者たちが、念仏者よりも長く阿鼻地獄にいるであろうことは不憫としか言いようがない。
 阿修羅が「仏は十八界だが私たちは十九界である」と言い、外道が「仏は一究竟道だが私は九十五究竟道である」と言ったように、「日蓮御房は師匠ではいらっしゃるがあまりにも強引だ。私たちは柔らかに法華経を弘めよう」などと言っているのは、蛍火が太陽と月を笑い、蟻塚が崋山を見下し、井戸が川や大河や海を侮り、鵲が鸞鳳を笑うようなものである。

 南無妙法蓮華経。
 文永九年太歳壬申三月二十日            日蓮花押   日蓮弟子檀那等御中

 佐渡の国は紙がないうえ一人一人に手紙を差し上げるのは煩わしく、また一人でも洩れれば不満があるでしょう。この手紙を志のある方々寄り集まって御覧になり、よく思索し心を慰めてください。世間でも、大きな歎きが起これば、小さな歎きはたいしたことではなくなるでしょう。この度の合戦で亡くなった人々は、謀反が事実か事実でないか置いておくとして、どれほど悲しいことでしょうか。いざわの入道、さかべの入道はどうなったのでしょうか。かわのべ山城得行寺殿などはどうなったのか書き記して知らせてください。
 外典の書物である貞観政要をはじめ、外典の物語、八宗の相伝書など、これらがなければ手紙も書けないので、どうか必ず送ってください。

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2009年02月28日

佐渡御書 8

 法華経には「諸の無智の人有り悪口罵詈等し刀杖瓦石を加うる乃至国王大臣婆羅門居士に向つて乃至数数擯出せられん」等云云、獄卒が罪人を責ずば地獄を出る者かたかりなん当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難し日蓮は過去の不軽の如く当世の人人は彼の軽毀の四衆の如し人は替れども因は是一なり、父母を殺せる人異なれども同じ無間地獄におついかなれば不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき又彼諸人は跋陀婆羅等と云はれざらんや但千劫阿鼻地獄にて責られん事こそ不便にはおぼゆれ是をいかんとすべき、彼軽毀の衆は始は謗ぜしかども後には信伏随従せりき罪多分は滅して少分有しが父母千人殺したる程の大苦をうく当世の諸人は翻す心なし譬喩品の如く無数劫をや経んずらん三五の塵点をやおくらんずらん。
(御書P960・9行目〜16行目)


(通解)
 法華経には「多くの無知な人々がいて、法華経の行者を悪しざまに罵り、刀や棒で打ち、瓦礫や石を投げつけるであろう。・・・法華経の行者はたびたびその土地を追われるであろう」(勧持品第13)とある。
 地獄の鬼が罪人を責めなければ、罪を滅して地獄を出る者はいないであろう。今の国主やその臣下がいなければ、日蓮の過去の謗法の重罪を消すことはできない。日蓮は過去の不軽菩薩の立場と同じであり、今の世の人々はまるで不軽菩薩を軽んじ罵ったものたちである。人が代っても、この因は同じである。父母を殺す人は誰であっても同じ無間地獄に堕ちる。どうして不軽菩薩と同じ実践をして日蓮一人が釈迦仏とならないことがあろうか。また、今日の人々は跋陀婆羅等と言われないことがあろうか。ただ千劫の間、阿鼻地獄において責められることこそ不憫に思われる。これをどうすることができようか。
 不軽菩薩を軽んじ罵った人々は、はじめは誹謗していたけれども、後には信奉し、付き従った。罪の多くは消滅して、わずかに残ったが、その分だけでも父母を千人殺したほどの大きな苦しみを受けた。今の世の人々は、悔い改める心がない。譬喩品にあるように阿鼻地獄で無数劫という長い間を過ごすことになるだろう。さらには、三千塵点劫や五百塵点劫という長遠な歳月を送ることになるだろう。

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2009年02月25日

佐渡御書 7

 日蓮は此因果にはあらず法華経の行者を過去に軽易せし故に法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を或は上げ或は下て嘲哢せし故に此八種の大難に値るなり、此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり譬ば民の郷郡なんどにあるにはいかなる利銭を地頭等におほせたれどもいたくせめず年年にのべゆく其所を出る時に競起が如し斯れ護法の功徳力に由る故なり等は是なり
(御書P960・5行目〜9行目)


(通解) しかし、日蓮が受けている八種の報いは、今述べた因果によるものではない。法華経の行者を過去に軽んじたからであり、月と月を並べ、星と星をつらね、崋山に崋山を重ね、宝玉と宝玉とをつらねたように尊い経典でる法華経を、ある場合には私たちには深遠すぎてと棚上げにして、ある場合には見下して嘲笑ったために、この八種の大難に遭っているのである。この八種の大難は未来永劫にわたって一つずつ現れるはずだったものを、日蓮が強く法華経の敵を責めたことによって、八種の大難が一時に集まり起こったのである。
 譬えていえば民が郷や郡などのなかに住んでいるうちは、どれほどの借金を地頭などにしていたとしても厳しくは取り立てられず、次の年、次の年へと延ばしてもらえる。しかし、その土地を出る時には、すべてを取り立てられるようなものである。「正法を護持する功徳の力によるものである」とはこのことである。
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2009年02月23日

佐渡御書 6

いよいよ日蓮が先生今生先日の謗法おそろしかかりける者の弟子と成けんかかる国に生れけんいかになるべしとも覚えず、般泥・経に云く「善男子過去に無量の諸罪種種の悪業を作らんに是の諸の罪報或は軽易せられ或は形状醜陋衣服足らず飲食・疎財を求めて利あらず貧賎の家及び邪見の家に生れ或は王難に遇う」等云云、又云く「及び余の種種の人間の苦報現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり」等云云、此経文は日蓮が身なくば殆ど仏の妄語となりぬべし、一には或被軽易二には或形状醜陋三には衣服不足四には飲食・疎五には求財不利六には生貧賎家七には及邪見家八には或遭王難等云云、此八句は只日蓮一人が身に感ぜり、高山に登る者は必ず下り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賎の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり
(御書P959・15行目〜P960・5行目)


(通解) ますます、日蓮の過去世、今世、先日に至るまでの謗法は恐ろしい。あなた方は、どうして、このような者の弟子となったのであろう。どうして、この国にうまれたのであろう。この先、どのようになっていくのか思いもよらない。
 般泥洹経では「弟子たちよ。過去世に、はかり知れない多くの罪やさまざまな悪業をつくっていたならば、その罪の報いとして、あるいは人々に軽んじられ、あるいは醜い容姿となり、衣服は足らず、食べ物は粗末でわずかであり、富を求めても得られず、貧しい身分の低い家や誤った思想の家に生まれ、もしくは権力者による迫害に遭う」とある。さらに「また、他のさまざまな人間の過去世の行いの報いとしての苦しみを、現在の世において軽く受けるのは、正法を護持する功徳の力によるものである」とある。
 この経文は日蓮のこの身がなければ、間違いなく仏の偽りの言葉となったであろう。一には「あるいは人々に軽んじられる」、二には「あるいは醜い容姿となる」、三には「衣服は足りず」、四には「食べ物は粗末でわずかである」、五には「富を求めても得られず」六には「貧しく身分の低い家に生まれる」七には「誤った思想の家に生まれる」、八には「権力者による迫害に遭う」とある。この八句はただ日蓮一人がわが身で受けているのである。
 高い山に登るものは必ず下る。人を軽んじればかえって自分が人に軽んじられる。容姿が立派で端整な人を謗れば、その報いを受けて醜い容姿となる。人の衣服や食べ物を奪えば必ず餓鬼となる。戒律を持つ尊貴な人を笑えば、貧しく身分の低い家に生まれる。正法を信ずる家を謗れば誤った思想の家に生まれる。十善戒を待つ者を笑えば、一国の民に生まれてその国の王からの迫害に遭う。これらは通常の因果として定まった法である。
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2009年02月19日

佐渡御書 5

日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば今生に念仏者にて数年が間法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一等と笑しなり今謗法の酔さめて見れば酒に酔る者父母を打て悦しが酔さめて後歎しが如し歎けども甲斐なし此罪消がたし、何に況や過去の謗法の心中にそみけんをや経文を見候へば烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし外道は知らずして自然と云い今の人は謗法を顕して扶けんとすれば我身に謗法なき由をあながちに陳答して法華経の門を閉よと法然が書けるをとかくあらかひなんどす念仏者はさてをきぬ天台真言等の人人彼が方人をあながちにするなり、今年正月十六日十七日に佐渡の国の念仏者等数百人印性房と申すは念仏者の棟梁なり日蓮が許に来て云く法然上人は法華経を抛よとかかせ給には非ず一切衆生に念仏を申させ給いて候此の大功徳に御往生疑なしと書付て候を山僧等の流されたる並に寺法師等善哉善哉とほめ候をいかがこれを破し給と申しき鎌倉の念仏者よりもはるかにはかなく候ぞ無慚とも申す計りなし。
(御書P959・6行目〜14行目)


(通解)日蓮も過去の謗法の種子をもったものなので、今世では念仏者となって数年の間、法華経の行者を見ては「未だに成仏した者が一人もいない(未有一人得者)」「千人のうち一人もいない(千中無一)」などと嘲笑っていた。今、その謗法の酔いが覚めてみると、酒に酔った者が父母を殴って喜んでいたのが、酔いが覚めたあとに後悔するようなものである。後悔してもどうすることもできない。この罪は消しがたいのである。
 まして心中に染まった過去の謗法はなおさらである。経文を拝見すると、烏が黒いのも鷺が白いのも過去世の業が強く染み込んだためなのである。外道はそれを知らずに自然であるといい、今の人は、日蓮が謗法の罪を経文によって明らかにして助けようとすると、自分の身には謗法がないと強く言い張って、「法華経の門を閉じよ」と法然が書いていることについてさえ、あれこれと抗弁してくるのである。
 念仏者はさておき、天台宗や真言宗などの人々までが、ことさらに、念仏の味方をするのである。
 今年一月十六日と十七日に佐渡の国の念仏者など数百人、その中の印性房という者が念仏者の中心であったが、日蓮のもとに来てこのように言った。「法然上人は法華経を抛てと書かれたのではない。一切衆生に念仏を唱えさせたのである。この念仏の大功徳によって極楽浄土に生まれることは疑いないと書き記したのを、比叡山の僧で佐渡に流されている者たちや園常寺の僧たちが、『素晴らしい、素晴らしい』とほめているのに、なぜ、あなたは念仏を破るのか」と。鎌倉の念仏者よりはるかに愚かであり、恥知らずというしかない。
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2009年02月18日

佐渡御書 4

 般泥(オン)経に云く「当来の世仮りに袈裟を被て我が法の中に於て出家学道し懶惰懈怠にして此れ等の方等契経を誹謗すること有らん当に知るべし此等は皆是今日の諸の異道の輩なり」等云云、此経文を見ん者自身をはづべし今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり、法然が一類大日が一類念仏宗禅宗と号して法華経に捨閉閣抛の四字を副へて制止を加て権教の弥陀称名計りを取立教外別伝と号して法華経を月をさす指只文字をかぞふるなんど笑ふ者は六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし、うれへなるかなや涅槃経に仏光明を放て地の下一百三十六地獄を照し給に罪人一人もなかるべし法華経の寿量品にして皆成仏せる故なり但し一闡提人と申て謗法の者計り地獄守に留られたりき彼等がうみひろげて今の世の日本国の一切衆生となれるなり。
(御書P958・16行目〜P959・5行目)



(通解) 般泥(オン)経では次のように説かれている。「来るべき世に、形ばかり袈裟を着て、仏法の中において、出家し仏道を志しているようでも、修行をなまけて精進せずに、これらの大乗経典を誹謗する者があらわれるだろう。これらの者はまさに、今日の、仏法に背く者たちと知るべきである」と。
 この経文を見る者は自身を恥じるべきである。今の末法の僧たちのように出家をして袈裟をかけながら修行をなまけて精進しない者は、釈尊と同時代の六師外道の弟子であると、仏は書き残されているのである。 法然の一派と大日房能忍の一派は、それぞれ念仏宗、禅宗と称している。念仏宗は法華経に「捨てよ・閉じよ・閣け・抛て(捨閉閣抛)」の四字を加えて正法を捨てさせ、権経の阿弥陀如来の名を称える修行だけを主張している。また禅宗は「釈尊の悟りは経文とは別に伝えられている(教外別伝)」として、法華経は月を指す指であり、法華経を読むのはただ文字を数えているようなものにすぎないなどと笑っている。こうした者たちは、六師外道の流れを汲む者が仏教の中に現れてきたものである。
 なんと嘆かわしいことだろうか。涅槃経では仏が光明を放って大地の下、百三十六の地獄を照らした時、罪人は一人もいなかった。法華経の寿量品でみな成仏したからである。ただし、一闡提人といって謗法の者だけは地獄の番人によって留められていた。彼らが源となって広がり、現在の日本国の一切衆生となっているのである。



捨閉閣抛(しゃへいかくほう)
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2009年02月17日

佐渡御書 3

 日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず不軽品に云く「其罪畢已」等云云、不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり魚鳥を混丸して赤白二・とせり其中に識神をやどす濁水に月のうつれるが如し糞嚢に金をつつめるなるべし、心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり心も又身に対すればこそ月金にもたとふれ、又過去の謗法を案ずるに誰かしる勝意比丘が魂にもや大天が神にもや不軽軽毀の流類なるか失心の余残なるか五千上慢の眷属なるか大通第三の余流にもやあるらん宿業はかりがたし鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし、我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし
(御書P958・8行目〜16行目)


(通解) また、日蓮がこのように迫害されるのも、過去世からの業がないわけではない。不軽品には「過去の罪の報いを受け終わって(其罪畢已)」と説かれている。不軽菩薩が数え切れないほどの謗法の人々に罵られ、打たれたことも過去世の業の報いであったということである。ましてや日蓮は今生では貧しく卑しい身分の者であり、栴陀羅の家の出身である。心でこそ少し法華経を信じているようであるが、体は人間に似ながら畜生の身である。魚や鳥を食べている両親の赤白二H(卵子と精子)から生まれ、その中に精神を宿している。それは、濁った水に月が映っているようなものである。糞を入れる袋の中に金を包んでいるようなものである。心は法華経を信じているので、梵天や帝釈さえも恐ろしいとは思わない。しかし、身は畜生の身である。心と体が釣り合っていないので愚者が侮るのも道理である。
 心と体を比べるからこそ、月や金にも譬えることができる。
 また、過去世の謗法を考えてみれば、だれが本当のことを知ることができようか。我が心は勝意比丘の魂であろうか。大天の魂であろうか。不軽菩薩を軽んじ罵った者たちの類だろうか。寿量品にある、謗法の毒気が深く入り、本心を失った者の残りだろうか。法華経の説法の場から立ち去った五千人の増上慢の眷属だろうか。大通智勝仏の昔に法華経に縁しても発心しなかった者たちの流れを汲んでいるのだろうか。宿業ははかり知れない。
 鉄は鍛えて打てば剣となる。賢人・聖人は罵られて試されるのである。私がこの度受けた処罰には世間における罪は全くない。専ら過去世の業の重罪を今世で消し、後生の三悪道の苦しみを免れるためのものなのである。
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2009年02月15日

佐渡御書 2

 宝治の合戦すでに二十六年今年二月十一日十七日又合戦あり外道悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食等云云、大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし、薬師経に云く「自界叛逆難」と是なり、仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起らん」云云、金光明経に云く「三十三天各瞋恨を生ずるは其の国王悪を縦にし治せざるに由る」等云云、日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれば聖人の如し又世間の作法兼て知るによて注し置くこと是違う可らず現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず、日蓮は此関東の御一門の棟梁なり日月なり亀鏡なり眼目なり日蓮捨て去る時七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時大音声を放てよばはりし事これなるべし纔に六十日乃至百五十日に此事起るか是は華報なるべし実果の成ぜん時いかがなげかはしからんずらん、世間の愚者の思に云く日蓮智者ならば何ぞ王難に値哉なんと申す日蓮兼ての存知なり父母を打子あり阿闍世王なり仏阿羅漢を殺し血を出す者あり提婆達多是なり六臣これをほめ瞿伽利等これを悦ぶ、日蓮当世には此御一門の父母なり仏阿羅漢の如し然を流罪し主従共に悦びぬるあはれに無慚なる者なり謗法の法師等が自ら禍の既に顕るるを歎きしがかくなるを一旦は悦ぶなるべし後には彼等が歎き日蓮が一門に劣るべからず、例せば泰衡がせうとを討九郎判官を討て悦しが如し既に一門を亡す大鬼の此国に入なるべし法華経に云く「悪鬼入其身」と是なり。
(御書P957・13行目〜P958・7行目)



(通解)宝治の合戦からすでに二十六年、今年の二月十一日と十七日にまた合戦があった。
 外道や悪人は如来が説いた正法を破ることができない。必ず、仏弟子らが仏法を破るのである。「師子身中の虫が、師子を内から食う」と説かれる通りである。同様に大果報を受けている人を、外の敵が倒すことはできない。身内によって破られるのである。薬師経で「国土に内乱が起こる(自界叛逆難)」というのはこのことである。
 仁王経には「聖人が国を去る時、七難が必ず起こる」と説かれ、金光明経には「三十三の諸天がそれぞれ瞋りや恨みを表すのは、国王が悪を放置し、退治しないためである」と説かれている。
 日蓮は聖人ではないけれども、法華経を、説かれている通りに受持しているので聖人と同じである。また、世間のありようも、あらかじめ知っていたので記しておいたが、その通りにならないはずがない。現世について言っておいたことが間違っていないことに照らして、後生について述べたことに疑いを起こしてはならない。
 「日蓮は、この関東の北条御一門にとって梁であり、太陽や月であり、鏡であり、眼目である。日蓮を捨て去る時、七難が必ず起こるであろう」と、去年の九月十二日に幕府によって捕らえられた時、大音声を放って叫んだのはこのことである。それからわずかに六十日や百五十日でこのことが起こった。しかし、これは前兆である。本当の報いが現れた時、どれほど嘆かわしいことになるであろうか。
 世間の愚者が思っているのには「日蓮が智者であるなら、どうして王難に遭うのか」などと言う。しかし、日蓮にはかねてからわかっていたのである。
 父と母を殺そうとした子がいた。阿闍世王である。阿羅漢を殺し、仏の身を傷つけ、血を出させた者がいた。提婆達多である。阿闍世王の六人の重臣はそれを褒め称え、提婆達多の弟子の瞿伽利らは喜んだ。
 日蓮は今の世にあっては、この御一門の父母であり、仏や阿羅漢のようなものである。その日蓮を流罪にし、主君も家来も共に喜んでいる。あわれで恥知らずな者たちである。謗法の僧らは、日蓮によって自らの禍が明らかになったことを以前は嘆いていたが、日蓮がこのような身となったことを今は喜んでいることだろう。しかし、後には彼らの嘆きは、今の日蓮の一門の嘆きに劣ることはない。例を挙げれば、藤原泰衡が、弟の忠衡を討ち、さらに源義経を討って喜んだようなものである。すでに北条一門を滅ぼす大鬼がこの国に入っているに違いない。法華経に説かれている「悪鬼がその身に入る(悪鬼入其身)」とはこのことである。

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2009年02月14日

佐渡御書 1


  文永九年三月 与弟子檀那 五十一歳御作

此文は富木殿のかた三郎左衛門殿大蔵たうのつじ十郎入道殿等さじきの尼御前一一に見させ給べき人人の御中へなり、京鎌倉に軍に死る人人を書付てたび候へ、外典抄文句の二玄の四の本末勘文宣旨等これへの人人もちてわたらせ給へ。
 世間に人の恐るる者は火炎の中と刀剣の影と此身の死するとなるべし牛馬猶身を惜む況や人身をや癩人猶命を惜む何に況や壮人をや、仏説て云く「七宝を以て三千大千世界に布き満るとも手の小指を以て仏経に供養せんには如かず」取意、雪山童子の身をなげし楽法梵志が身の皮をはぎし身命に過たる惜き者のなければ是を布施として仏法を習へば必仏となる身命を捨る人他の宝を仏法に惜べしや、又財宝を仏法におしまん物まさる身命を捨べきや、世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし又主君の為に命を捨る人はすくなきやうなれども其数多し男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ、魚は命を惜む故に池にすむに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむしかれどもゑにばかされて釣をのむ鳥は木にすむ木のひきき事をおじて木の上枝にすむしかれどもゑにばかされて網にかかる、人も又是くの如し世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし。
仏法は摂受折伏時によるべし譬えば世間の文武二道の如しされば昔の大聖は時によりて法を行ず雪山童子薩(タ)・王子は身を布施とせば法を教へん菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ、肉をほしがらざる時身を捨つ可きや紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし、破戒無戒を毀り持戒正法を用ん世には諸戒を堅く持べし儒教道教を以て釈教を制止せん日には道安法師慧遠法師法道三蔵等の如く王と論じて命を軽うすべし、釈教の中に小乗大乗権経実経雑乱して明珠と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は天台大師伝教大師等の如く大小権実顕密を強盛に分別すべし、畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる諛臣と申すは是なり強敵を伏して始て力士をしる、悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべしおごれる者は強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し、正法は一字一句なれども時機に叶いぬれば必ず得道なるべし千経万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず。
(御書P956〜957・12行目)


 
(通解) この手紙は、富木殿のもとへ送り、三郎左衛門殿、大蔵塔の辻の十郎入道殿ら、桟敷の尼御前、その他これを御覧になっていただくべき方々一人一人に宛てたものです。京都と鎌倉での合戦で亡くなった方々の名前を書き記して届けてください。「下典抄」「法華文句」の第2巻、「法華玄義」の第4巻とその注釈書、「勘文」や「宣旨」などを、こちらへ来られる人々は、持っておいでください。
 世間一般において人が恐れるものは、炎に包まれることと、剣をかざして襲われることと、この身が死に至ることことである。
 牛や馬でさえ身を惜しむ。まして人間であればなおさらである。不治の病にかかっている人でさえも命を惜しむ。まして健康な人なら言うまでもない。
 仏は次のように説く。「七つの宝を三千大千世界にあふれるほど敷き詰めて供養しても、手の小指を仏や法華経に供養することには及ばない(趣意)」(薬王品)と。雪山童子は鬼に身を投げ与え、楽法梵志は身の皮を剥いだ。命以上に惜しいものはないのだから、その身命を布施として仏法を修行すれば必ず仏となる。
 身命をも捨てる人が、他の宝を仏法のために惜しむだろうか。また、財宝を仏法のために惜しむような者が、それより大事な命を捨てることができるだろうか。
 世間の道理でも、重き恩に対しては命を捨てて報いるものである。また、主君のために命を捨てる人は少ないように思われるけれども、その数は多い。男は名誉のために命を捨て、女は男のために命を捨てる。
 魚は、命を惜しむため、すみかとしている池が浅いことを嘆いて、池の底に穴を掘って棲んでいる。しかし、餌にだまされて釣り針を呑んでしまう。鳥はすみかとしている木が低いことを恐れて、木の上の枝に棲んでいる。しかし、餌にだまされて網にかかってしまう。
 人もまた、これと同じである。世間の浅いことのために命を失うことはあっても、大事な仏法のためには身命を捨てることが難しい。それゆえ、仏になる人もいないのである。
 仏法においては、摂受と折伏のどちらかを実践するのかは、「時」に応じて決まるのである。譬えていえば、世間でいう文武の二道のようなものである。
 それゆえ、過去の偉大な聖人のは時に応じて仏法を修行したのである。
 雪山童子や薩(タ)王子は、「身を布施とすれば法を教えよう。その布施行が菩薩の修行にあたるだろう」と迫られたので身を捨てた。肉をほしがらない時に身を捨てるべきだろうか。紙のない時代には身の皮を紙とし、筆のない時には骨を筆とするべきである。
 戒律を破る人や戒律を持たない人が非難され、戒律を持ち、正法を行ずる人が重んじられる時代には、さまざまな戒律を堅く持つべきである。国王が儒教うや道教を用いて仏教を弾圧しようとする時には、道安法師や、慧遠法師、法道三蔵らのように、命もかえりみず、国を諌めるべきである。
 仏教の中に小乗と大乗、権教と実教、顕教と密教の違いを厳然と立て分けるべきである。
 畜生の心は、弱い者を脅し、強い者を恐れる。今の世の僧たちは、畜生のようなものである。知者の立場が弱い事を侮り、王の邪悪な力を恐れている。こびへつらう臣下とは、このよな者をいうのである。強敵を倒して、はじめて力ある者であるとわかる。
 悪王が正法を破ろうとし、邪法の僧たちがその味方をして、智者をなきものにしようとする時は、師子王の心を持つ者が必ず仏になるのである。例を挙げれば、日蓮である。
 これは、おごりによるもののではない。正法を惜しむ心が強盛だからである。おごっている者は、強敵にあうと必ず恐れる心が出てくるものである。例を挙げれば、おごり高ぶった阿修羅が帝釈に攻められて、無熱池の蓮の中に身を縮めて隠れたようなものである。
 正法は、一字一句であっても、時と機根にかなった実践をすれば、必ず成仏するのである。どれほど多くの経文や論書を習い学んだとしても、時と機根に相違していれば、決して成仏はできない。


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2009年02月13日

新池御書

仏に成り候事は別の様は候はず、南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば天然と三十二相八十種好を備うるなり、如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり。(御書P1443)


(通解) 仏になるということは特別なことではありません。ただ南無妙法蓮華経とほかのことをさしおいてひたすら唱えていくならば、自然に生命に仏の相である三十二相八十種好をそなえていけるのです。法華経方便品第二に「我が如く等しくして異なること無からしめん」とあるように、釈尊のような仏にやすやすとなっていけるのです



 今日のある会合でご教授していただいた御書です。
 この「新池御書」の御文のなかの“他事なく”とは、ほかのことをさしおいて とありますが、これは感謝することです。とくに師恩です。そして、この信心を通して感じた事や功徳を思い出して感謝するのです。と仰いました。そうすることで、釈尊のような仏に簡単になれると教えいただきました。
 私は、御書を読む人の境涯で捕らえ方が違うとおもいました。
 多分私だったら、ただ南無妙法蓮華経と唱えれば釈尊になれると、安易に考えてたとおもいます。今日一日の嫌な事、辛かった事、よかった事、嬉しかった事、すべてに感謝したく思いました。
 この先輩は、2年ぐらい前にも担当幹部で指導してもらったときに、「私の後ろには常に先生がいらっしゃる。だから負けられない」と今でも鮮明に覚えています。この指導をうけてから私は「師弟」を考えるようになりました。本当にいい先輩ですし、いい幹部だと思いました。
これからもっと深く感謝していきます。 
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2009年02月06日

種種御振舞御書

 各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず(御書P910)


(通解)
 おのおの日蓮の弟子と名乗る人々は、一人も臆する心を起こしてはならない。



2009-2-2  聖教新聞
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最蓮房御返事

 第六天の魔王智者の身に入りて正師を邪師となし善師を悪師となす、経に「悪鬼入其身」とは是なり、日蓮智者に非ずと雖も第六天の魔王我が身に入らんとするに兼ての用心深ければ身によせつけず、故に天魔力及ばずして王臣を始として良観等の愚癡の法師原に取り付いて日蓮をあだむなり(御書P1340)


(通解)
 第六天の魔王が、私の身に入ろうとしても、かねての用心が深いので身に寄付けない。ゆえに、天魔は力及ばずに、王や臣下をはじめとして良観などの愚かな法師たちに取りついて、日蓮を怨むのである。



2009-2-2  聖教新聞
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王舎城事

 法華経の敵となりし人をば梵天帝釈日月四天罰し給いて皆人にみこりさせ給へと申しつけて候、日蓮法華経の行者にてあるなしは是れにて御覧あるべし(御書P1138)


(通解)
 法華経の敵となった人を罰して、皆、人の見せしめにするようにと、梵天、帝釈、日月、四天に申しつけてある。日蓮が法華経の行者であるか否かは、これをもってご覧なさい。


2009-2-1 聖教新聞
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2009年01月26日

一代聖教大意

問う諸経の如きは或は菩薩の為或は人天の為或は声聞縁覚の為機に随つて法門もかわり益もかわる此の経は何なる人の為ぞや、答う此の経は相伝に有らざれば知り難し所詮悪人善人有智無智有戒無戒男子女子四趣八部総じて十界の衆生の為なり
(御書P398)


(通解)
質問する。法華経以外の経は或いは菩薩のために説かれ、或いは人界天界の衆生のために説かれ、また或いは声聞縁覚のために説かれ、機根に従って教えの内容も変わり、その功徳もそれぞれ違う。一体、この法華経はどんな人のために説かれたのであろうか。
答えて云う。この法華経については相伝でなくては知ることが難しい。
その上で答えるならば、悪人・善人・智慧のある者・無い者・男子・女子・地獄餓鬼畜生修羅の四悪趣の者・法華経序品に出てくる八部の雑衆・総じていうなら十界の衆生全てのために説かれたのである

*通解は下記のサイトより転載いたしました。
http://checkd.at.infoseek.co.jp/index.htm


 法華経は全ての人々に説かれたありがたいものです。その法華経を純粋に継承している創価学会に縁することができた私は幸せ者です。
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2009年01月20日

御書こそ勝利の源泉 名誉会長のスピーチ

 御書を開けば、希望の光線を浴びる。御書を学べば、勇気が出る。智慧がわく。大聖人の大精神が、わが生命に脈打つからだ。そこにこそ「難を乗り越える信心」の炎が燃えあがる。
 勝利の源泉こそ、「唱題」であり、「御書」なのである。戸田先生は、御書研鑽の姿勢について「一行一行、拝しながら、『その通りだ。まったく、その通りだ』と深く拝読していくべきだ」と教えられた。御書の一節だけでもよい。日々、拝読しながら、実践していくことが大切だ。

2008-12-29 聖教新聞


 私もこの先生のスピーチの通り実践してまいります。
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2009年01月11日

ライオンキング御書

上野殿御消息

「親によき物を与へんと思いてせめてする事なくば一日に二三度えみて向へとなり」 御書P1527

(通解)親によい物をおくろうと思っても、何もできることがなければ、せめて一日に二度三度は、笑顔を見せてあげなさい。

 池田先生は言われた。
 「親孝行できる人は、将来、社会のため、人のために尽くしていける人になる」
 「子どもたちが、お父さんお母さんを、心から慈しみ、大切にする。その心が大事なのです。そういう安心と信頼の家庭を皆さんが築いていってほしいのです」

2009-1-1 小学生文化新聞 


 自分の親に対して折伏をしようとしていた時期がありました。ある時の本部幹部会で先生が「親を折伏するなどとんでもない」と。そして、「親孝行しなさい」と仰りました。ハッとしました。私は傲慢だったと気付きました。親孝行していこうと心に誓いました。自分自身をこの信心で磨いて立派になって親を安心させていこうと。そして少しづつ喜んでもらえることをしていこうと。親に感謝し報いていこうと。
 恥ずかしいことですが、以前の私は自分の事ばかりしか考えていなく、親孝行などしようとは思ってもいませんでした。
 ですが、今は親に感謝できるようになりました。これもこの信心の功徳だとおもいます。
 私にこの信心を教えてくれた妻、そして妻の御両親、そして何よりも
厳然とこの創価学会を守り抜いた池田先生に報恩感謝いたします。
posted by 元 at 12:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 御書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月24日

一生成仏抄

都て一代八万の聖教三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとはゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し  御書 P383

(通解)釈尊一代の八万法蔵といわれる聖教、三世十方の諸仏菩薩も、すべててわが心の外にあるとは、ゆめゆめ思ってはならない。しかれば、仏教を習うといっても、自己の心性を観じなければ、全く生死の苦しみを離れることはできない。もし自分自身の心の外に道を求めて万行万善を修めても、たとえみれば、貧しい人が、日夜に隣の人の財宝を数えてみても、半銭も自分のものとはならないようなものである。



 自己の心性を観じていくとは、自身を見下ろすことなのでしょうか。
今、自身の欲望、苦しみ、嘆き、虚しさなど様々観じられます。業の深い自分であるとただただ思う。だからこそ一歩一歩前へ進みたく思う。
いい心悪い心を受け止め自他共の幸福を祈りたい。観心
posted by 元 at 02:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 御書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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