2009年02月06日

池田名誉会長 御書と師弟 第6回 仏の未来記

大聖人の未来記を学会が実現

 師弟の真実を弟子が残せ!


 二月は、御本仏・日蓮大聖人の御聖誕(十六日)の月です。そして、恩師・戸田城聖先生の生誕(十一日)の月です。
 ですから私と妻にとって、この二月は弟子としての「報恩」の月です。
 あの昭和二十七年(一九五二年)の二月闘争の時、私は蒲田支部の同士に呼びかけました。「この二月、見事な勝利の結果をもって、戸田先生の誕生日の月をお祝いしようではありませんか!」と。
 わが故郷である東京・大田区の天地から、私は“師のために戦う”弟子の陣列を広げました。二月闘争の原動力は「報恩」の魂です。大きく壁を破った二百一世帯の折伏は、直弟子の謝徳の結晶なのです。
 さらに、昭和三十六年(一九六一年)、第三代会長に就任して最初の二月。私は仏教発祥の地・インドを初訪問しました。




 アジアの民に日を


 それは恩師に報いゆく旅でした。
 「アジアの民に 日をぞ送らん」−私の胸には、東洋広布を願ってやまなかった恩師の遺影がありました。
 戸田先生の不二の分身として、大聖人の「仏法西還」の御予言を実現しゆく道を、決然と踏み出したのです。
 仏の未来記を現実に証明し、成就するのは誰か。
 「顕仏未来記」は、この根本を明かされた御書です。
 大聖人は、本抄の冒頭に「我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむこと無けん」(御書P505)という法華経の経文を掲げられました。
 これは、末法の広宣流布を予言した釈尊の「未来記」(未来を予見し記したもの)です。この経文を現実のものとされたのが、大聖人であられます。
 インドから西域へ、中国へ、韓・朝鮮半島へ、日本へ−西から東へと、月氏の仏法は流伝してきました。それは、壮大な仏法東漸の歴史です。
 ところが、末法の日本に至って、完全に形骸化し、民衆救済の力を失ってしまった。
 いくら多くの経典が持ち込まれ、儀式が盛んでも、仏閣が甍を連ねても、真に民衆のために正義と慈悲の闘争を貫く師弟は現れなかった。
 実際、鎌倉時代の日本では念仏の哀音が広まり、民衆は深い厭世感・絶望感に沈んでいた。




 太陽の仏法は赫々


 その暗い闇の日本に、末法万年の民衆を照らしゆく日蓮仏法の太陽は赫々と昇ったのです。
 大聖人が、競い起こる三障四魔、三類の強敵と戦い抜かれ、大難の中で妙法を弘通されたからこそ、広宣流布を予言した釈尊の未来記は真実となりました。「顕仏未来記」では、この烈々たる御確信を述べられています。
 「日本国中に日蓮を除いては誰人を取り出して法華経の行者と為さん汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にす豈大悪人に非ずや」(御書P507)−日本国中に、日蓮を除いては、誰人を取りあげて法華経の行者とするのであろうか。汝は日蓮を謗ろうとして、かえって、仏記を虚妄にするのである。まさに汝こそ大悪人ではないか−。
 大確信の獅子吼です。
 誰が仏法の正義のために戦っているのか。自分一身のために言うのではない。仏法の金言を何よりも大切にし、正しく実践し抜いているからこそ、何ものも恐れずに叫べる。いかなる圧迫にも断固と打ち勝つ力が出るのです。
 まっしぐらに師弟の道に徹する人生は強い。どこまでも正義の炎を燃え上がらせ、祈りぬき、戦い切ることである。そうすれば、破れない壁などない。勝てない戦いなどない。
 釈尊の未来記を実現したのは大聖人であられます。それを踏まえて、「では汝自身の未来記はどうなのか?」との問いを設けられ、答えられたのが、今回の御聖訓です。
 「答えて曰く仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(御書P508)
 「後五百歳の始」とは、末法濁世・闘諍言訟の時代です。その濁りきり、乱れ切った世に、末法万年の全世界の民衆を救う大白法が「東土の日本」から興隆するのだ!これが大聖人の厳然たる未来記なのです。




 師弟不二の大闘争


 では、大聖人の未来記である「一閻浮提広宣流布」を現実としたのは誰か。
 それは、我ら創価学会です。SGI(創価学会インターナショナル)です。初代・牧口先生、二代・戸田先生、そして第三代である私と皆様方の「師弟不二」の大闘争によって、今日、大聖人の仏法は世界百九十二ヵ国・地域に広がりました。
 何事も「一人」から始まる。真実の「最初の一人」が出現すれば、「後継の一人」の弟子が立ち上がる。そして時代創造のうねりは「二人・三人・百人と次第に」(御書P1360)伝わっていく。「法」といっても、この「師弟の継承」の中にのみ躍動し、広がりゆくのです。
 学会は、正しき師弟の団体であるからこそ、大聖人の未来記を壮大なスケールで実現できた、仏法史上、未曾有の教団なのであります。この学会とともに、一人一人と対話し、一人一人を励ましながら、広宣流布へ歩んでおられる同志の皆様こそ、最高に尊貴な方々に他ならない。皆様方をおいて、一体、誰が御本仏の未来記を現実のものとしてきたでありましょうか。この大福徳は、未来永遠にわたって無量無辺であります。
 ゆえに、広宣流布の闘士である皆様方を侮辱し迫害する者は「豈大悪人に非ずや」であり、仏罰も厳然である。御本仏が御断言です。その厳しき因果の現証は、皆様がご存知の通りであります。




 必ず未来の経典に


 今や、学会の大前進に世界の多くの知性が目を見張っています。アメリカの著名な仏教研究者であるクラーク・ストランド氏は、こう述べておられた。
 「歴史的に見ても、新しい宗教革命が起きる時は、その宗教が伝わる勢いは大変なものがあります。理屈を超えて、人の心から心に伝わっていく。
 創価学会を研究してきて、おそらく五百年、千年に一度、誕生するかしないかの偉大な宗教であると確信します」と。
 深く、鋭く見てくださっています。
 あまりにも使命深き学会の存在について、戸田先生はこう語られたことがありました。
 −法華経には、威音王仏という仏が登場する。二万憶もの仏が、みな同じ威音王仏という名前で、長遠の歳月、衆生を救済してきたと説かれている。この威音王仏という名も、優れた仏であったかもしれないし、またそういう名の教団があったと考えることもできる。
 同じように「創価学会」という教団は、必ず未来の経典に金文字で記される。「一閻浮提広宣流布」という未来記を実現した「創価学会仏」として、永劫に仰がれてゆくのだ−




 「団結の歓喜」で進め


 今、世界の同士と心を一つに胸を張って広布の道を進まれる皆様方は、なんと不思議な福徳と、なんと尊貴な栄光に包まれゆく方々でありましょうか。
 学会の同士一人一人の祈りは、個々人の祈りであるにとどまらず、世界広宣流布の仏意仏勅に連なる祈りです。だからこそ、仏の智慧が光り、仏の力が湧くのです。諸天善神が必ず動き、三世十方の仏菩薩が皆様を守りに護るのです。
 私の友人で、法華経研究家であられるインドのロケッシュ・チャンドラ博士(インド文化国際アカデミー理事長)が昨年春、日本で講演した際、参加していた一人の女性の質問に答えながら、こう語ってくださいました。
 「あなたが創価学会を知ることができ、創価の師弟の偉大なる心に接することができたことは、非常に幸運な出来事であることに、気づかなければなりません」と。
 博士は常々、法華経のメッセージは創価の師弟によって人類全体への呼びかけとなったと洞察されています。それは「人間であることの喜びを実感し、精神を開花させ、世界が家族のように苦楽を分かち合おう」という呼びかけです。
 三世常住の大法を悟った仏の慈悲と智慧を現代に継承し、仏の未来記を堂々と実現しゆく「一閻浮提第一の教団」−これが創価学会です。生老病死の苦悩を打開しながら、永遠に連帯し、「団結の歓喜」に満ちて進む常楽我浄の大陣列です。
 その誉れ高き主役が、皆様方です。甚深の使命を自覚すれば、力はまだまだ出ます。
 私は戸田先生との約束を実現しようと祈りに祈りました。“世界中に、地涌の同志よ、出でよ!”−この強い一念を込めて、走りに走り、大地に染み込ませるように題目を唱え抜いてきました。一人また一人と心を結び、仏の如く敬い、励まし続けてまいりました。




 末法万年の基盤が


  そして今、世界同時に地涌の菩薩が涌出する時代を迎えました。四十八年前、メンバーが一人もいなかったインドは今、三万八千人の大行進となった。いよいよ、一閻浮提広宣流布の壮大な展開が始まりました。
 昨年、「百九十二番目」を飾ってメンバーが誕生した国は、南太平洋の宝石の島「ソロモン諸島」と、ヨーロッパの文化の宝庫「モンテネグロ」(旧ユーゴ)です。
 どちらも、戦乱の悲劇を乗り越え、新時代を開いてきた天地です。この国々にも、広布のリーダーが涌出し、「三変土田」の道を開く、平和と幸福の妙法の大音声が響き始めたのです。
 二十一世紀の絢爛たる前進は、これからです。明年の学会創立八十周年(二〇一〇年)から一〇〇周年(二〇三〇年)へ−爛漫たる世界広布の文化と教育の大花が咲き誇る時代になります。
 末法万年尽未来際への尊き基盤を磐石に創り上げているのが、今の私達の戦いなのです。大聖人は、日本は「邪知謗法の国」であると喝破されました。この日本で勝てば、世界の同志も威光勢力を増し、ますます歓喜踊躍して勝ち栄えていくことができる。
 偉大な業績は、逆境の中で生まれる−これは歴史の法則であります。
 本抄では「日来の災・月来の難・此の両三年の間の事既に死罪に及ばんとす今年・今月万が一も脱がれ難き身命なり」(御書P509)と仰せです。
 本抄を御執筆された文永十年(一二七三年)、大聖人は佐渡流罪の大難の中におられました。万が一にも死を逃れられない命である−。しかし、この最悪の状況の中で、大聖人は、はるか未来の世界広布を展望なされたのです。あまりにも雄大にして悠然たる御本仏の御境涯ではありませんか。
 今、さまざまな苦境と戦う同志もおられる。しかし最も大変な中でこそ、最も崇高な人生の金字塔が打ち立てられていくのです。これが、大聖人に連なる我らの「難来るを以って安楽」(御書P750)の極意です。




 永遠の勝利劇を!


 さらに大聖人は本抄で「世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え」(御書P509)と呼びかけられました。師匠の正義を語り広げるのは、弟子の責任であります。
 未来を託す師の絶対の信頼に、命を賭して応えゆく弟子の誓願の闘争の中にのみ、広宣流布の命脈はある。
 思えば、聖教新聞の創刊も、会館の建設も、創価学園・創価大学の創立も、戸田先生の事業が最悪の逆境にあった時に、師弟で語り合った構想です。そのすべてを、私は不二の弟子として実現しました。そして、牧口先生、戸田先生を、全世界に大きく宣揚しました。
 師匠の正義を満天下に示す。あらゆる大難に打ち勝って永遠に伝える。これこそ、弟子の誓願であります。
 そして、いよいよ、わが分身である青年部の諸君の出番であると、私は声高く宣言しておきます。
 マハトマ・ガンジーの精神を継承されるラダクリシュナン博士が、私との対談集で、マハトマ・ガンジーの言葉を紹介されました。
 「私が去った時には、(弟子の)ジャワハルラル(ネルー)が私の言葉を話すであろう」
 その予言通り、インドの独立の父・ガンジーが世を去った後、高弟であったネルー首相がガンジーの遺志を継ぎ、新生インドは旭日の興隆を始めたのです。
 こうしたガンジーと弟子達の姿を通し、ラダクリシュナン博士は「師匠は弟子の行動の中に生き続ける」「永遠性に向かって創造的に生きる時、師匠と弟子は不二になる。私はそう信じています」と断言されました。
 「仏法の未来記」を、世界へ、万代へ伝え広げゆく私たち師弟の前進は、悠久のガンジスの如く、壮大な未来に続く地涌の人材の大河であります。
 “世界史は、不断の闘争が生む永遠の人間劇に他ならない”とは、フランスの歴史家ミシュレの感慨でした。我らは、人類史に未曾有の広宣流布という「永遠の人間勝利の劇」を演じているのです。
 創価の「師弟の未来記」が、不滅の大光を放ち始めました。人類の民衆史の勝利の黎明が、ここにあります。


 大仏法
  世界広布の
    使命かな
  創価の仏勅
    永遠に光ぬ



2009-2-5 聖教新聞
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2009年01月23日

池田名誉会長 御書と師弟 第5回 「凡夫即極」の人間学

我ら“民衆学会”を世界が賛嘆



「庶民こそ偉大!」の大宣言


 もう四十年ほど前でしょうか。ある著名な評論家と会った折のことです。先方からは延々と自己紹介がありました。名門の家柄であること、有名大学の出身であること・・・。
 私は一言だけ申し上げました。
 「私は戸田城聖先生の直弟子です。これが最高の誇りです」
 日蓮仏法は、全民衆を照らす「太陽の仏法」です。
 創価学会は、この大仏法を広宣流布しゆく「民衆の教団」です。庶民を守り、庶民を励まし、庶民の底力を引き出して、大きく社会を変えてきました。
 民衆の力ほど強いものはありません。
 今、大変な経済危機にある社会も、庶民を最大に励まし、心を奮い立たせることによって、必ず未来への活路を開くことができる。
 政治にせよ、経済にせよ、指導者達が、庶民への「感謝」と「献身」に徹していけば、社会は必ず良くなります。
 反対に、庶民の力を生かせない社会は必ず行き詰ります。
 「地位」や「学歴」を鼻にかけて、庶民を見下し、利用し、犠牲にするようであれば、社会の闇は深まるばかりでしょう。日蓮大聖人の仏法は、こうした傲慢と虚栄と差別の風潮を真っ向から諌め正す「人間主義」「民衆主義」の大哲学です。
 今回、拝読する「諸法実相抄」の御文は、凡夫こそ最も尊い仏である
という「凡夫即極」の哲理を示された重要な御聖訓です。
 「釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(御書P1358)
 釈迦仏が我ら衆生を成仏に導くために主師親の三徳を具えられていると思っていたが、そうではない。反対に、仏に三徳を被らせているのは凡夫である − 。仏の偉大な徳も、凡夫がいればこそ輝くのだ、との仰せです。
 すごい御金言です。「権威のための宗教」を「人間のための宗教」に一大転換させた、人類史に燦たる人間主義の大師子吼です。




宗教革命の勝利劇


 ここでいう凡夫とは、大聖人御自身の御事です。大聖人は、一人の凡夫として一身に大難を受けながら、法華経の経文を身で読まれ、仏の金言が真実であることを証明されました。
 大聖人の御境涯そのものが、「凡夫即極」を示された宗教革命の偉大な勝利劇であられたのです。
 そして、この大聖人の連なって立ち上がり、妙法を唱え弘める門下もまた「凡夫即極」の実践者となることは、御聖訓に照らして絶対に間違いありません。
 本来、仏教は「人間釈尊」から出発した教えであった。それがいつしか、色相荘厳の仏とされ、それを聖職者らが自分達の権威づけに利用し、民衆と隔絶してしまった。この仏教の歴史を大逆転したのが、大聖人の「凡夫即極」の法門です。
 仏に照らされて衆生が輝くのではない。むしろ凡夫こそが、仏を仏たらしめている“主役”なのだ − このように「仏と凡夫」の考え方を逆転させたのです。
 その裏づけとなるのが「諸法実相抄」という甚深の法理です。
 本抄の冒頭では、「諸法」(あらゆる存在・現象)はことごとく「実証」(真実の姿)であるとして、一切の現象は「一法ものこさず妙法蓮華経のすがた」(御書P1358)であると説かれています。
 宇宙の森羅万象、ありとあらゆる事象が「妙法」の現れである − 。ゆえに、その実相である「妙法」そのものを唱え弘めゆく凡夫こそ、最極の法に生きる尊貴な仏なのであります。
 大聖人は本抄で、凡夫こそ「本仏」であると力強く仰せです。凡夫は妙法の当体(体の仏)だからです。
 これに対し、経典説かれるさまざまな仏は、すべて妙法の働きを示した姿(用の仏)であり、「迹仏」(仮の仏)にすぎないとされています。



万人に仏の生命が


 大宇宙の不変の法である妙法蓮華経という仏の大生命は、万人の中に実在します。このことに気付き、強い信心で、自らの生命を開き顕していけるかどうか。「仏」と「凡夫」の違いといっても、結局は、ただのこの一点だけなのです。
 戸田先生は言われました。
 「成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。大聖人の凡夫即極、諸法実相のお言葉を、素直に信じ奉って、この身このままが、永遠の昔より未来に向かって仏であると覚悟することである」
 人間は、人間以上に偉くはなれない。人間以上の特別な存在になる必要もない。人間が人間として、最も人間らしく光り輝いていく。これが一番、大事な事ではないのでしょうか。
 こうした「諸法実相」の法門を究めるならば、庶民を尊敬する人間哲学に帰着する。これが「凡夫即極」の人間学です。
 私もこの精神を胸に、庶民の一人として、庶民とともに、徹して庶民のために、戦い抜いてきました。
 戸田先生は「本物の人間でなければ広宣流布はできない」と言われました。格好ではない。妙法を弘めるために行動し、広宣流布のために苦労して戦い、民衆の幸福のために貢献している人こそ、人間として最も高貴である。どんな大学者もどんな大権力者も絶対に敵わない。
 学歴も肩書きもない、無名にして尊極な庶民が築いてきたからこそ、学会は崇高なのです。
 インドの詩聖タゴールは、「人間の歴史は 虐げられた者の勝利を忍耐強く待っている」と歌った。
 最もいじめられ、苦しんできた庶民が強くなり、勝ち栄え、人間尊厳の社会を創っていく。その新時代に入ったのです。




「民の子」の誇りで


 日蓮大聖人は、「民の子」であると言い切っておられた。
 「日蓮は中国・都の者にもあらず・辺国の将軍等の子息にもあらず・遠国の者・民が子」(御書P1332)、「日蓮は安房の国・東条片海の石中の賤民が子なり」(御書P883)等と仰せです。
 日蓮仏法は貴族仏法ではない。どこまでも民衆仏教です。
 牧口先生は、ご自身を「素と之れ荒浜の一寒民」と言われた。戸田先生も「私も北海道の貧乏な漁師の倅だよ」「それを何よりも誇りとしているのだ」とおっしゃっていました。
 私も、大田の貧しい海苔屋の息子です。庶民であることを誉れとする心こそ、創価の三代を貫く精神なのです。




虚栄の弟子を叱咤


 虚栄は師弟を破壊する。
 大聖人の弟子の三位房は、師の慈愛と期待に包まれて、比叡山に遊学させていただいた。しかし、名聞名利の心が強い三位房は、師の深い御本意がわからなかった。京の都に上って、公家の面前で説法したことを、得意満面で、名前まで貴族風に変えて報告してきたのです。
 大聖人は烈火のごとく三位房を叱咤されます。
 「おまえは、師匠の日蓮を卑しんで、このようなことを書いてきたのか」(御書P1268、趣意)−。
 “見栄を張る人間は、必ず天魔がついて狂ってしまうのだ”“言葉も田舎なまりのままでよいのだ”“自分を見失い権威に媚びるさまは、まるでネズミがコウモリになったようで、どっちつかずの姿ではないか”と烈々と誡めておられます。
 師弟の正道を全うさせゆかんとする、厳愛の指導であられました。
 かつて、最澄(伝教大師)は他宗の者たちから「最澄未だ唐都を見ず」(御書P237)と誹謗された歴史があります。
 “最澄は、唐の都に留学していない” −名門の教えを受けていないではないか、というのです。今でいう学歴主義に通じる傲慢にして卑劣な中傷です。
 大聖人は「万里をわたて宋に入らずとも」「一代の勝劣はこれをしれるなるべし」(御書P222)−留学などしなくとも、仏法の正邪を明確に学び究めることができるのだ、と悠然と仰せです。



青年よ実力で勝て


 信心の世界には、信心の道があります。信心の志の深い人こそが尊い。学歴で重用したり、学歴がないからと軽視したりするようになってしまえば、もはや信心ではない。仏法ではない。学会ではない。恐いのは虚栄です。増上慢です。
 「ただ心こそ大切なれ」(御書1192)です。坊主でもなければ、権力者でもない。ただただ、広宣流布のため、正義のためにと、ひたぶるに信心に励む庶民こそ「無作三身」「凡夫即極」の仏様です。これが日蓮仏法の極意です。そして創価学会の永遠不滅の大精神です。
 庶民の方々が、傲岸不遜な人間たちからの嘲笑を跳ね返しながら、悩める友のために、真剣に祈り、励ましてこられた。
 「貧乏人と病人の集まり」と悪口されることも誉れとし、庶民の真実の味方となって創り上げた、平等と尊敬の人間共和の世界−これが創価学会です。
 したがって、大学を出ていないからなどと、卑下するようなことは絶対にあってはなりません。青年は「実力」です。「虚飾」ではない。「実力」で勝つことです。「智慧」と「人格」で光ることです。
 人の何倍も苦労し、実力で道を開いてきたリーダーであればこそ、多くの庶民が心から共感し、信頼するのです。
 「法自ずから弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」(御書P856)です。信心に励む人、令法久住に尽くす人をこそ、大聖人は何よりも大事にされている。御書は、厳正にして公平です。人間性の真髄を説かれた御金言です。




「戸田大学」の卒業生


 戸田先生の事業の苦境を打開し、恩師をお護りするために、私は進学を断念しました。
 ある日ある時、大学生たちとの懇談のあと、先生は、私に言われました。
 「君も、悠々と大学へ行きたかったろうな。君の予定を全部わしが壊してしまった」
 私は即座にお答えしました。
 「とんでもありません。私は先生の側で働いているだけで最大に幸せです」
 私は栄えある「戸田大学」の卒業生です。師弟こそ「人間の大学」です。正しく強い人に学ぶことが、正しく強くなる直道です。
 学会は、人間として最高の力をつける全人格の綜合大学です。全民衆に開かれた、学びの広場です。この“民衆学会”を今や世界の知性が尊敬し、賛嘆する時代に入りました。
 私は世界からの二百五十に及ぶ名誉学術称号も、すべて「戸田大学」の卒業生として、そして庶民の代表として、拝受しております。




仏法の賢人に


 諸法実相です。戸田先生の愛弟子は勝ちました。そして、この大福徳は、私とともに戦ってくださっている幾百万の尊き庶民の皆様に、子々孫々までもおよんでいくことは間違いありません。これらは、光り輝く「信行学の勝利」であり、「庶民の栄光」の証しなのです。
 この人類の希望である創価の民衆城を守り、栄えさせるために、強靭な知性と人格をもつ一級の指導者を輩出しなくてはならない。学問を重ね、学歴がある人は、その分、正義のため、同志のために力を出しきっていくのが当然です。
 仏法の「賢人」にならなければいけない。「才能ある畜生」になってはならない。学歴を鼻にかけるような空気は、いささかも許してはならない。
 戸田先生は遺言されました。
 「学会のおかげで偉くなり、皆に守られながら、いい気になり、増上慢になって弓を引く恩知らずは厳然と追い出せ」
 そもそも大学は、大学に行けなかった人々に尽くすためにこそあります。
 “庶民が庶民を守る”ために、多くの俊英たちが「民衆のための学問」を身につけてもらいたい。友の幸福と社会の繁栄のために、各界へ勇んで躍り出てもらいたい。
 進学も、そうした本物のリーダーに育つための挑戦です。




受験生に栄光あれ


 今、全国の多くの未来部の皆さんが、受験勉強に挑んでいます。健康で、満々たる生命力を発揮して希望の春を迎えられるよう、皆で応援しお題目を送っていきましょう。受験生のいるご家族や、会場を提供してくださっているお宅にも、細心の配慮をお願いします。
 どうか、風邪などひかれませんように!私と妻も、青春の不屈の挑戦者である皆さんが一人ももれなく、悔いなき栄光の進路を、朗らかに、たくましく開いていかれるよう、真剣に祈り続けております。
 大詩人ホイットマンは、高らかに歌っている。
 「おお!様々な状況のもと、いかなる人生の天候のもとにあっても、決して挫折することなく、脇目もふらず道を歩む、かけがえのない民衆。彼ら以上に大切で、尊く、そして必要とされる人々はいないだろう」
 庶民こそ人間の王者であり、幸福と平和の博士です。戸田先生は厳として獅子吼されました。
 「庶民が強くなるとは、どういうことか?それは、わが創価学会が強くなることである!」
 仏法の人間学・生命学を、わが敬愛する同志の皆様が晴れ晴れと語りながら、「師弟の宝光」に包まれた人間勝利の大道を、胸を張って歩んでいかれることを念願してやみません。




2009-1-22 聖教新聞
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2009年01月08日

池田名誉会長講義 御書と師弟 第4回 

 勝利の因果

 「青年・勝利の年」が、晴れ晴れと幕を開けました。
 今月、晴れて「成人式」を迎える全国の若き友も、本当におめでとう!
 今回も、「広布」と「人生」の偉大なる勝利のために、御金言を拝していきましょう。
 「過去の因を知らんと欲せばその現在の果を見よ 未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」 (御書 P321)
 日蓮大聖人は、「開目抄」でこの心地観経の文を引用されています。
 この経文は、過去世・現在世・未来世の三世にわたる生命の因果律を説いています。現在の姿を見れば、過去世の因がわかる。また現在の姿を見れば、未来の果もわかるという意味です。
 この経文そのものは通途の因果を説いたものです。しかし、佐渡流罪の大難の中で記された「開目抄」では、この経文を通して、さらに深遠なる「妙法の因果」の理法を鋭く表されていると拝されます。
 すなわち、過去世からの宿命は、今世で必ず転換できる。広宣流布のために、三類の強敵と勇敢に戦い抜く中で、いかなる宿業も断ち切ることができる。難を勝ち越えて、大果報の未来を開く事ができる、と示されているのです。
 大仏法に巡りあえた青春が、どれほど崇高か。仏意仏勅の創価学会と出あい、同志と共に使命の道を進める人生が、どれほど幸福か。「妙法の因果」に生ききることこそ、今世の最極の福徳となるのです。


 戦後の闇の中から

 この「妙法の因果」に照らせば、私たちは、不思議なる宿縁によって、広宣流布を願って生まれてきた一人一人であります。“戦い、勝つために生まれた”地涌のとうしなのです。
 私が戸田城聖先生に初めてお会いしたのは、昭和二十二年八月十四日、十九歳のときでした。
 敗戦後の深い闇の時代です。私は胸を患い、「三十歳までは生きられない」と言われた無名の一青年でした。その私が、恩師に見いだされ、人間革命の仏法を学び、広宣流布の使命を託されたことで、若き生命に元初の太陽が昇ったのです。
 「この師についていこう。この師のためならば、命を懸けても悔いはない!」 ― こう青春の心を決定しました。
 生命はいずこより来たり、いずこへ往かんとするのか ― 。
 眼前の社会には、苦悩から苦悩へと、流転を続ける人間模様が渦巻いていました。私自身も、死と隣り合わせの病魔との戦いが続いていた。
 その中で、心地観経の一節に、私は強く胸を揺さぶられたのです。「すごい哲学だ」と直感しました。


 正義の反転攻勢へ

 二十三歳の二月、戸田先生の事業の危機を打開するために奔走する中で、私は日記に記しました。
 「業因、業果、善因、善果、この法理は、誰よりも悉く自己自身が知悉しているものだ。所詮、誰人を責めるものでもない。誰人の責任でもない」 ― 。
 透徹した仏法の因果律に照らすならば、運命は嘆き悲しむものではない。決然と立ち向かうものである。いな、断固として創り変えていくものである。
 わが師・戸田先生は、師子王でありました。ゆえに、その弟子である私も、一切の悲哀や感傷を打ち破りました。私の胸奥には、広宣流布の師匠のために命を捧げて戦う随喜が燃え滾っていた。この「師弟不二」の烈々たる一念を因として、正義の反転攻勢の渦を巻き起こしていったのです。
 仏法も人生も、成長への最高の「因」となるのが「師匠」の存在です。師と出会い、師に応え、師と共に戦い、師の勇気と智慧を生命に刻んでいく中で、自分の小さな境涯のカラを破ることができる。それこそが、大いなる未来の自己を築きゆく勝利の根源力となるのです。
 

 「未来の果」を創れ

 信心とは、過去から現在、また現在から未来への幸福を照らし出す道です。
 「過去の因」に縛られ、「現在の果」を嘆く人生は不幸です。確かに、一面では「過去の因」があって今がある。しかし、今の自分の境涯を高めていくことで、過去に囚は悪因ではなくして善因となる。過去に囚われない。いな、過去さえも変えていくことができるのです。
 そして、今この瞬間の一念が変われば、それが「現在の因」となって「未来の果」をいくらでも変えていけます。
 日蓮仏法は、太陽の仏法です。現実を変革し、未来を創る希望哲学です。わびしさや諦めなどない。くよくよ愚痴をこぼすことなどありません。
 今の一念がどうか。それによって、常勝の道が深く、強く、できあがっていく。生死流転の苦しみを断ち切り、勝利と栄光の果を創造していけるのです。


 祈りとは生命の炎

 その根本が「祈り」である。南無妙法蓮華経は、最も偉大な幸福の法則です。
 御書に「久遠元初の自受用報身無作本有の妙法を直ちに唱う」 (御書 P875)とあります。
 妙法を唱えれば、その瞬間に、久遠元初の大生命が発動します。その時、過去の宿業に左右されるような不幸は、乗り越えているのです。
 妙法の「変毒為薬」(毒を変じて薬と為す)の功力は絶対です。信心は、宿命を転換し、この人生を最高に楽しく生ききっていくための道です。
 「祈り」とは、観念ではありません。燃え上がる生命の勝利の炎です。この一念の炎があれば、祈った瞬間、生命はすでに勝っている。「百千万年くら(闇)き所にも燈をいれぬればあか(明)くなる」 (御書 P1403)と仰せの通りです。
 これが万人に開かれた人間革命の実践です。
 新年を晴れやかに出発された皆様のように、「目標」をたてて、生まれ変わった決意で前進することも、偉大な「未来の果」をもたらす「現在の因」です。
 戸田先生から私が、低迷していた文京支部の指揮を託されたのは、昭和二十八年の四月のことです。最初の会合で、私は同志と一緒に題目を唱えました。はじめは、なかなか声がそろわない。しかし何度も繰り返すうちに、皆は真剣になり、呼吸が合うようになった。そして「前進!」「前進!」と何度も声を出しながら出発した。この一念の革命から、全国が驚嘆する支部の革命が始まったのです。
 広布の目標に、「よし、戦うぞ!」「断じて勝ってみせるぞ!」と挑む。この「現在」の決意の一念が「因」となって境涯が開け、不可能をも可能にしていく力が発揮できるのです。私も、この獅子奮迅の連続闘争で勝ってきました。
 どうか、「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経と」 (御書 P1143)唱えに唱え抜いていってください。


 人生は強きでいけ

 今、日本も世界も不況下にあります。多くの同志が必死の格闘をされている。リストラや倒産の危機と闘う壮年もおられる。厳しい就職戦線に挑み続ける青年もいる。お子さんのいじめや不登校などで悩むお母さんもおられます。さらに、病気との闘いもあるでしょう。
 人生は、生老病死の闘争です。しかし、皆様には、「無常宝聚 不求自得」(無上の宝の聚りを求めずして自ら得る)という「絶対勝利の信心」があります。
 最も苦しい時にこそ、最も神々しい歴史が刻まれ、最も大いなる福運が積まれるのです。広宣流布のために戦う皆様を、ご一家を、三世十方の仏菩薩、諸天善神が守護しないわけがありません。
 私も妻も、全同志が厳然と守りに護られ、信心即生活で勝利していかれるよう真剣に祈っています。
 「人生は強きで行け」とは、戸田先生の遺言でありました。我らは強気でいきましょう!


 「本因妙の仏法」

 戸田先生は語られました。
 「結果を感じて結果に生きる ― 過去の因を考えて、今の果のみが生活の全体であるならば、人類の生々発展はありません。瞬間に起こった生活の事実を、たえず未来の因とする、あるいは原因でなければならぬと決定するのが、本因妙の仏法であります」
「南無妙法蓮華経と唱えたてまつることが、よりよき運命への転換の方法であります。この方法によって、途中の因果みな消えさって、久遠の凡夫が出現するのであります」と。
 過去がどうであれ、これまでがどうであれ、最も強い本因を新たに植えて生命の潮流を巻き返すことができる。そして「前へ!前へ!」と未来を勝ち開いていけるのが、我らの信心です。
 アメリカ・ルネサンスの旗手エマソンも言っている。
 「成功をおさめた人びとのすべてに共通に認められる点が一つある ― それは彼らが因果律を信じていたということだ」「私たちの役目は瞬間瞬間にかかわっているのだから、瞬間を大事に使うことにしよう」
 世界的な経済学者として名高い、香港中文大学の劉遵義学長と語り合った時、「自己実現される期待」という理論が話題になりました。
 つまり、人々が現在、抱いている「期待」が、未来の経済現象に反映されるという洞察です。
 心の一念を明るく前向きに変えていくことは、経済の好転にも連動するものであります。それが人間社会の前進の因果です。


 「師弟不二」の栄光

 恩師・戸田先生と出会ってから六十二星霜。先生は言われました。
 「妙法実践の証明が未来にどう開花していくか、私と共に、どこまでも戦ってもらいたい」
 今、私はますます健康で、世界中の指導者と友情を結び、一千万の同志と共に前進しています。世界から拝受する栄誉も、師との出会いの瞬間から広がった“栄光の因果”です。広宣流布の大師匠にお仕えし抜いた果報に他ならない。
 この栄冠のすべてを、私は報恩の心で牧口先生、戸田先生に捧げております。そして、この福徳が全同志へ子孫末代まで流れ通うように、との祈りをこめてお受けしているのです。
 わが胸中に“師弟不二の太陽”が登れば、その瞬間から大変革が始まる。打開できない宿命はない。打ち勝てない戦いなどないのです。
 仏法で説く境涯革命の因果とは、現実的には、師弟がなければ実現されません。「妙法の因果」とは、いわば「師弟の因果」です。弟子は「因」です。師匠は「果」です。弟子の自覚に一切の因がある。
 「開目抄」においても、大聖人は「法華経の行者」としての勝利を示されることによって、弟子が敢然と立ち上がることを促されています。
 弟子の勝利が師匠の勝利である。師匠の勝利は弟子の勝利です。これが仏法の甚深の方程式であり、「師弟不二」の真髄です。
 恩師の誓願であった七十五万世帯の折伏を達成した昭和三十二年の年末。私は詠みました。
  
  冬枯れに
   
    春の若芽は

      因果倶時 

 不二の弟子として、未来に伸びゆく決意を託した句です。
 師匠は心の大地です。その心の大地から、弟子は永遠に勝利の花を咲き薫らせるのです。
 ゆえに君よ、あなたよ、断じて負けるな!現在から未来へ断固と勝ち行け!「師弟の因果」「勝利の因果」に生きゆく青春こそ、悔いなき生命の尊極の大道です。
 わが尊き同志の皆様、本年も勇敢に戦い、威風も堂々と勝ち進もうではありませんか!


 2009-1-8 聖教新聞
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2008年12月25日

第3回 御義口伝と青年

池田名誉会長講義 御書と師弟

第3回 御義口伝と青年


 「大作、いいか。絶対に命に刻んでおけ。学会の闘士は、この御聖訓をわすれるな!」
 今回は、入信の直後、わが師匠・戸田城聖先生から、烈々たる気迫で魂に打ち込んでいただいた御金言を共々に拝したい。
 法華経の涌出品第15には「昼夜に常に精進す 仏道を求めんが為の故に」(法華経466ページ)と説かれております。
 これは、大地より出現した無量千万億の地涌の菩薩が、無数劫という過去から、師匠である仏の智慧を習い修めてきた。その修行の姿を説いた経文です。
 地涌の菩薩は、無量の長い時間、昼夜を問わず一心に「師弟の道」を
精進し、巍々堂々たる境涯を開いたのである。この法華経の一文を受けられて、日蓮大聖人は仰せになられました。
 「一念に億劫の辛労尽くせば本来無作の三身念念に起こるなり所謂南妙法蓮華経は精進行なり」(御書P790)
 すなわち、今、末法の我々は、この瞬間瞬間の生命の内に億劫の辛労を尽くしゆくのだ。それが南妙法蓮華経の唱題行なのである、との御文です。
 それまでの仏道修行は、「無量劫」という想像を絶する長遠な時間をかけて行わねばならないとされてきました。そうではなく、南妙法蓮華経と唱えることによって、わが「一念」に「本来無作の三身」、すなわち、もともと(本来)自分自身に具わっている、ありのまま(無作)の仏の生命を湧き上がらせることができる。
 いわば、永遠を一瞬に凝結して行ずる修行が、私たちの唱題行なのです。



胸中の仏の大生命
 「三身」とは、仏の生命の三つの側面であり、端的に言えば「仏身(真理)」「報身(智慧)」「応身(慈悲)」です。この三身がそろった完全な大生命が、他のどこでもない、わが胸中から湧き起こってくるのです。
 どれほど素晴らしい妙法の功力であり、どれほど深遠な法理であり、どれほど荘厳な私たちの仏道修行でありましょうか。
 凡夫である私たち自身の内に尊極の仏の生命が厳然と具わっている ― この仰せは、仏法の人間主義の精髄です。
 古今東西、権威の聖職者らが民衆を見下し、抑圧してきたのが、多くの宗教の悲劇の歴史です。「御義口伝」は、こうした人間蔑視、民衆蔑視の宗教に対する挑戦であり、高らかな勝利宣言とも拝察されます。
 「一念に億劫の辛労を尽くせば」 ― 私は若きより、この「御義口伝」を身で拝しきる覚悟で、戸田先生の弟子としての戦闘を貫いてきました。
 広宣流布の大師匠であられる戸田先生をお護りし、その構想を一つ一つ実現するために、一念に億劫の辛労を尽くすのだ、と誓願していたのであります。



今の「一念」が勝負

私が先生にお仕えしたのは十年間です。しかし、そこには百年、いな千年にも匹敵する師弟の歴史が刻まれました。
 「南妙法蓮華経は精進行なり」 ― 甚深の仰せであります。
 精進の「精」とは「無雑」。混じりけのない信心です。「進」とは「無間」。絶え間ない前進です。この純一にして不退の「行」に励みゆくことが、私たちの成仏への直道なのです。
 私たちにとって、広宣流布のために苦労しながら、前へ前へ進んでいくことは、すべて「億劫の辛労」に通じていきます。
 今の「一念」が勝利を決する。ロシアの大文豪トルストイも、「今に生きること、つまり、今、最高の行動することこそが賢明である」と語った。真剣の一念が未来を開きます。
 「一念」は見えない。しかし、それは行動となって現れる。「賢者は喜び愚者は退く」(御書 P1091)と仰せの如く、試練にも喜び勇んで挑む一念。これが「信心」です。その勇敢な前進の原動力が「題目」です。
 誰しも苦しみや悩みはある。経済苦や病苦もある。けれども、妙法を唱え、広宣流布へ進む人は、自分自身が仏の生命となる。いかなる苦難も乗り越え、勝ち越えゆく仏の智慧と力を、わが命から引き出すことができる。その戦いの中で、わが一念は、真金の如く強くなり、深まっていくのです。



「素晴らしい悩み」

 戸田先生は、よく言われました。「お金がなくて悩む。体が弱くて悩む。悩みは多次元にわたって時々刻々と起こってくる。その中にあって、法を弘めようとして悩む。人々を幸福にしようとして悩む。正しき信心に立って、法のため、人のため、広宣流布のために悩む、ということは、最大の素晴らしい悩みである」と。
 師弟の大願を掲げて行動する、その一瞬一瞬の生命に、仏と等しい生命が「念念に」溢れてくるのです。
 「月月日日」に強く励みゆく学会活動にこそ、現代の精進行にほかなりません。わが同志の皆さんこそ、「本来無作の三身」の大生命を「念念に」躍動させて戦う尊貴な地涌の菩薩です。
 「我らは、二十一世紀の精進行の大英雄なり」と、胸を張って勇敢に今日も一歩前進していきましょう!

 「御義口伝」は、日蓮大聖人が法華経の要文を講義された御口授(口伝)の筆記です。日興上人が綴り残され、大聖人に御允可をいただいたと伝えられる、真髄の法門です。
 この法華経の御講義は、大聖人が身延に入られてからの数年間にわたり行われました。大聖人は、あらゆる大難に打ち勝たれ、悠然たる勝利の御境涯で、末法万年のため、後継の育成に全魂を注がれていたのです。



若師子の大法戦

 数多くの門下の中で、日興上人の闘争力は抜きん出ておられました。大聖人が御年五十三歳で身延に入山された時、日興上人は二十九歳であられた。日興上人は、駿河(現在の静岡)を拠点として、大聖人のおられる甲斐(現在の山梨)までの一帯 ― いわば師匠する「本陣」で颯爽と指揮を執り、弘教を展開された。そして、後に教団の中核になる青年門下を続々と育てていかれたのです。
 権力者や邪法の悪僧らは、大聖人の厳然たる師子王の御姿に恐れおののいていた。ゆえに“弟子を狙え!”と矛先を変え、日興上人とその後進たちも“標的”とされた。謀略によって追放された弟子門下もいたのです。
 あの「熱原の法難」は、「御義口伝」を講義されている時代に起こりました。その熾烈な弾圧との戦いの矢面に、若師子・日興上人は立たれたのです。師であられる大聖人が、尽未来際に向けて法華経の極理を講義される中で、弟子の日興上人は、破邪顕正のために「億劫の辛労」を尽くしておられた。
 師匠も戦う。それにもまして弟子が戦う。この不二の熱闘の中で、永遠不滅の法門が脈動し、正義の血脈、勝利の血脈が流れ通っていくのです。師匠をお護りし、広布の地盤を広げる拡大戦。襲い来る魔軍との攻防戦。日興上人は、この闘争の状況を逐一、大聖人にご報告し、次の前進への御指南を仰がれました。戦いは、ひたぶるに師を求め、師と呼吸を合わせる電光石火の往来の中で勝ち開かれたのです。
 それは、弟子たちが勇んで師のもとに集い、団結を固め、再び戦場に赴くための会議でもあったに違いありません。いわば絶対勝利への“協議会”であり、“幹部会”であったといってよい。
 日興上人は、命を賭しての闘争に身を置かれながら、師の講義を完璧に後世に伝えようとされた。万年の民衆救済へ、遺言の思いで講義なされる師匠。その教えを一言一句も違えず心肝に染め、権力の魔性と戦い抜く覚悟の弟子。あまりにも厳粛でした。その志は、他の五老僧とは天地雲泥であった。
 だからこそ、師の正義と真実を余すところなく残すことができた。「御義口伝」は、まさに師弟不二の勝利の劇の結晶なのです。
 歴史は、人間と人間が創る。その究極が師弟です。
 師とともに「精進行」に打ち込める人生は、最高に幸福です。それ自体が不滅の光を放つ栄光の一日一日なのです。



戸田先生の講義

 戸田先生は、師・牧口先生にお供され、命がけの獄中闘争で仏法の真髄を悟達なされた。学者でも、聖職者でもない。最極の法を生命で実践された行者でした。その先生が、時に厳として、時に闊達に、時にユーモアを交えながら、自在に発せられる指導や講義は、幾十万もの庶民の心に勇気と希望の炎を点火してくださいました。
 先生は、場所も時も問わず、あらゆる場面でご指導くださった。ご自宅や西神田の旧学会本部だけではありません。道を歩きながらでも、地方に向かう列車の中でも、突如として御書の講義が始まるのが常でした。
 「本当に私の講義を身をもって受けた人間は、根本的に力が違うよ。あとでわかる」と語られておりました。



門下よ戦い進め!

学会は、戸田先生の願業である七十五万世帯の大折伏に向かって勇猛精進していた。私は師の構想を実現する大闘争の渦中で、深夜、妻とともに、先生の指導を必死に綴り残しました。師の教えを一言も漏らさず、未来永遠に残しゆかんとの祈りを込めてです。
 先生が逝去された後も、『人間革命』を不惜身命の激務の中で執筆してきました。さらに先生の全集をまとめ、講義のレコードを作り、先生の思想を語りに語り抜いてきました。
 恩師逝いて五十年 ― 。私は師の正義を社会に宣揚し、世界に広げる使命に、全生命を捧げてきたのです。
 「仏法は、すべて証拠主義である。証拠がなければ、観念論でしかない」とは、戸田先生の透徹した指針でした。
 今、私はこの師弟不二の使命と栄光の印綬を、わが青年部の諸君に託したい。
 明年は「青年・勝利の年」。創価の正義を未来へ広げゆくには、師と心を合わせて弟子が妙法を朗々と唱え抜き、「一念に億劫の辛労」を尽くす以外にない。広宣流布は、一閻浮提に開きゆく、師と青年との“勝利の共同作業”であることを宣言しておきます。
 先生は、「大作を育てたから、もう安心だ」と語っておられました。弟子の誉れです。師匠に安心していただけること以上の幸福はありません。
 先生はこうも言われました。「人間は戦うために生まれてきた。進みに進み、勝つために生まれた。これが幸福と平和につながる人生の意義である。人生は勝利のためにある」
 その勝利の力が題目です。
 今、私は直系の弟子である青年部に、万感の期待を込めて呼びかけたい。
 わが門下よ、一念に億劫の辛労を尽くせ!徹して苦労せよ!試練の炎の中で生命を鍛え、金剛不壊の大城の如き自分自身を創り上げよ!
 明年も、私とともに戦おう!
 私とともに勝って勝って、勝ちまくろう!そして永遠不滅の歴史を築きゆこう!


2008-12-25 聖教新聞







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2008年12月14日

必ず打開できる!

池田名誉会長講義 御書と師弟 第2回 三変土田 (下)
 今、日本も世界も、大変な経済不況の中にあります。しかし、仏法では、「一心の妙用」(一念の不思議な力)を教えている。断じて負けない信心の一念があれば、必ず必ず打開できる事を確信していただきたいのです。私も妻も、全同士の皆様方厳然と守りに護られ、一人ももれなく勝ち栄えていかれるよう、一心不乱にお題目を送っております。
 仏国土を開く儀式は、二度、三度と繰り返されて成就しました。三変土田の挑戦は、粘り強く、繰り返すことが大切なのです。苦しいときこそ、「強盛の大信力」(御書 P1118)で祈りに祈り、何度でも挑戦し、断じて断じて未来を勝ち開こうではありませんか。
 詩聖タゴールは謳いました。
「国は人間が創造したものです。国は土からできているのではなく、人々の心でできています。もし人間が輝いていれば、国は顕現されます」
 今や妙法は世界192カ国・地域に広がりました。創価の運動は「人類模範の善の連帯」と期待されております。私たちの“地涌の三変土田”が、世界を大きく動かしつつあるのです。
 広宣流布の舞台は新段階に入りました。大聖人の仰せの通り「二陣三陣つづきて」(御書 P911)、新しい人材が勇み立つ時です。これこそ「青年・勝利の年」です。
 全国、そして世界の各地で、創価の師弟の旗を掲げ、社会に貢献しゆくわが同志こそ、誉れも高き三変土田の仏の大行進なり!私は心からこう賞賛したいのです。
2008-12-12 聖教新聞


 池田先生のもと、二陣三陣と続けゆくために自身がまず人材になる決意と次なる大人材を祈りに祈りぬき「誉れも高き三変土田の仏の大行進」を声高らかに歩んでまいりたい。
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2008年12月13日

三変土田

池田名誉会長講義 御書と師弟 第2回 三変土田 (下)

 三変土田―この娑婆世界は、なぜ三回にわたって行われたのか。この点について天台大師は、娑婆世界を清め、「方便土」「実報土」そして「寂光土」にした、と意義づけています。
「方便土」とは「二乗」などが住む世界、「実報土」は「菩薩」が住む世界、「寂光土」は「仏」が住む世界です。
 天台はまた、「三惑」という惑いを破ること、すなわち一回めは「見思惑を破ること、二回目は「塵沙惑」を、さらに三回目は「無明惑」を破ることだ、とも論じています。
 この三惑に打ち勝って、仏の境涯を顕す象徴とするのです。
 ともあれ、大事な点は、釈尊が、間を空けずに、二度、三度と、連続して国土を変え続けたことにあります。第二波、第三波とうねりを起こし続けてこそ、偉大な変革は成し遂げられる。


三惑を打ち破る事は並大抵の事ではできません。戸田先生が「私は、信心のことになると、強情なまでに辛抱強いんだよ」と仰っています。
強情な信心、巌窟王の執念をもてるかあらためて挑戦していきたい。
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2008年12月12日

三変土田

池田名誉会長講義 御書と師弟 第1回 三変土田 (上)

『心の一法より国土世間も出来する事なり』 御書 総勘文抄 P563
との御聖訓は、仏法の奥義です。「一念」は即「三千」の次元に広がる。人間の「心の一法」のあり方しだいで、国土が善くも悪くもなる。
 人類の精神史は、この「心の一法」の探求の歩みでもあったといって過言ではない。戦争も、飢餓も、地球環境の問題も煎じつめれば、すべて人間の「心の一法」に帰着するからです。

3回にわたる浄化

 さて「三変土田」とは何か。これは、今いる国土を仏国土に変えていくという変革の法理です。「三変」とは、三度にわたって変えること。
 「土田」とは、国土・土地・場所の意味があります。
 法華経には「虚空会の儀式」が説かれます。すなわち、輝きを放つ巨大な宝塔が大地から出現し、全宇宙から諸仏が集まって、虚空(空中)で釈尊の説法が行われます。
 ところが、最初は、宝塔の中にいる多宝如来は姿を現しませんでした。宝塔の扉は固く閉ざされたままです。この扉を開く条件として、諸仏が来集することが必要であった。そのためには、仏が集うにふさわしい国土(仏国土)に清めることも必要となる。そこで釈尊が、三回にわたって国土を清めたことを「三変土田」というのです。

一回目―釈尊は眉間から光を放って、無数の国土にいる仏たちを見ました。それぞれの国土では、さまざまな仏と菩薩が妙音をもって法を説いていた。この仏たちが、それぞれに従う菩薩に「私は今、まさに娑婆世界の釈尊の所へ行く!そして多宝如来の宝塔を供養するつもりだ」と告げる。
 宝塔が涌現したことを知るや、釈尊と多宝如来にお会いするために、無数の仏たちが続々と結集してくるのです。
 無数の国土とは、現代的に言えば他の無数の星々といえるかも知れない。宇宙のすみずみで活躍してきた諸仏が、弟子たちを引き連れて、この地球上の霊鷲山に集ってくるのです。なんと雄壮なスケールでしょうか。
 この仏菩薩を迎えるために、釈尊は大地を瑠璃で彩り、宝の樹で荘厳しました。
 芳しい香りが広がり、曼荼羅華で敷き満たされます。この浄土に大宇宙から集まった諸仏は、一人ずつ「獅子の座」に座る。これが一回目の儀式です。

二回目―最初の浄化が行われても、全宇宙からやってきた諸仏は膨大な数で収まりきれません。そこで釈尊は、さらに八方のおのおの二百万億那由他もの国土を浄めます。それから無数の国土は、すべてつながって、想像を絶する広大な一つの仏国土が出現します。
 しかし、それでも、全宇宙の仏が集まるには十分な広さではなかった。

三回目―二回目と同様に、八方のおのおの二百万億那由他の国土を浄化し、すべての国土がひと続きとなった、さらに壮大な仏国土が出現します。
 三回目の浄化の結果、この娑婆世界と、合わせて八方の四百万億那由他もの国土が全部一つの仏国土と化して、そこに十方の分身仏が満ちあふれるのです。
 これで条件が整い、ついに宝塔の扉が開かれます。多宝如来が見守る中、大衆が空中に導かれ、虚空会の説法が始まる。
 釈尊は大音声で告げました。「誰か能く此の娑婆国土に於いて、広く妙法華経を説かん。今正しく是れ時なり」未来の弘教の呼びかけです。

未来を担う人材群

「三変土田」の本質とは、宇宙の広がりをもって、無数の弟子が勇んで師のもとに馳せ参じる荘厳な師弟のドラマといってよい。ここから、遠大な未来の広宣流布へ誓願の人材郡が打ってでるのです。
 師弟こそ、一切の原点です。
 師弟こそ、勝利の源流です。
 この虚空会の儀式の開幕は、法華経の「本門」への起点となっています。久遠の師弟が織りなす「本門の舞台」を開いたのが、この「三変土田」です。
 仏眼・法眼で見れば、今、日本そして世界のあらゆる所で、仏国土が築かれつつあります。絢爛たる民衆凱歌の「本門の舞台」が実現しているのです。
 いよいよ、「本門の弟子」が躍り出る時代が到来しました。

2008-12-11 聖教新聞掲載


 心とは師弟の誓願の祈りより生まれると。善い心すなわち、己心のなかにある仏界を顕現することであり、師匠と共に広宣流布しゆくことであるとおもう。
posted by 元 at 01:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 池田名誉会長講義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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