2009年06月01日

公明党の中道主義とは

【問い】
 公明党の中道主義とは、どのようなものでしょうか。また、いままでいわれてきたものと、どのような違いがあるのでしょうか。

【答え】
 われわれの唱える中道主義は、生命の尊厳、人間の尊重という根本に立ち返って、そこから、いっさいの文化活動を推進していこうという考え方です。
 公明党の中道政治とは、この中道主義の政治面おける実践といえよう。
 中道主義と似たものに、中庸主義という主張がある。西洋では古代ギリシャ、東洋では中国の儒教にあり、ずいぶん昔から繰り返されてきた。
 戦後の日本でも、かつて芦田内閣が中道政治を唱え、いまの民社党も中道主義を主張している。
 ことばは似ているが、これらは、いずれもわれわれの中道主義とは、その本質において、まったく異なったものだ。
 結局“行き過ぎてもいけない、足りなくてもいけない”というだけの考え方であり、それは、哲学というよりも処世術といったほうが適当であろう。したがって、それにもとづく政治は、きわめて消極的なものとなり、未来に向かっての、力強い前進、指導性もありえない。
 これに対して公明党の主張する中道主義、中道政治は、仏法の真髄の生命哲学にもとづき、真に人間性を尊重する慈悲の政治を実現しようとするものです。これこそ、人類が太古以来、求めて、なお解決でき得なかった課題である。したがって中道主義の実現は、もっとも古くして、しかも、もっとも新しい課題の解決といえよう。
 とくに現代においては、資本主義社会でも、社会主義社会でも“人間不在”ということが、大きい問題となっている。それは、資本主義社会においては、利潤の追求が第一義であって、そのため、弱肉強食となり、人間一人一人の幸福が犠牲にされることが珍しくない。
 一方、社会主義社会においても、画一的な経済体制、全体主義的な国家形態のもとに、個個の人間の自由が抑圧されており、これらの現状を憂えて“人間不在”といわれるようになったものである。
 もともと、人間のためにつくられた政治、経済等の機構、制度が、かえって人間性を抑圧し、犠牲にしている。この行き詰った現代を、いかに打開していくか。深く思索していくならば、どうしても人間生命を解明した仏法を根本としていかねばならないことは明白です。
 生命は色心不二であり、唯物(色)でもなければ、唯心(心)でもない。
 空仮中の三諦でいえば、唯心論の空諦も、唯物論の仮諦も、ともに部分観であり、空仮中の三諦円融のうえの中道こそ、もっとも正しい生命観なのです。これを確立し、生命の限りない尊厳を実現する道が、日蓮大聖人の三大秘法の仏法です。
 この仏法による人間革命、すなわち個人の確立を基盤として、さらに政治の面においても、人間性尊重の政治を行っていこうというのが、公明党の中道主義なのです。
 したがって、中道主義においては、人はたがいに尊敬しあい、信頼しあっていくことが基調となる。
 いま、世界の思想をみると、資本主義は資本家を擁護する思想であり、その矛盾を克服する理論として登場した共産主義は、労働階級を擁護し、労働者による独裁を唱える思想です。
 いずれも、その基盤は偏頗であり、しかも物事を対立的にとらえるから、不信と対立、相克を招くことは必然である。これでは、いつまでたっても平和はなく、解決もありません。中道主義こそ、高い次元からこれらのイデオロギーを指導し、社会不信と対立を克服する大哲学なのです。
 現実に公明党は、階級も、年齢も、地方差も越えて、幅広く大衆の支持を得ている国民政党であり、あらゆる人々の最大限の幸福を実現しようと努力している。
 このことは、中道主義が、もっとも本源的な人間性に立脚するがゆえに、初めて可能となったのであり、さらに、中道主義こそ、不信と対立に明け暮れてきた人類の暗黒の歴史に終止符を打つものであることの証明ともいえよう。

【指導集−質問に答えて− 池田大作著 昭和42年4月2日 発行】


 これは、昭和42年に発行されたものです。現在、資本主義社会の限界がみえてきています。ここで書かれている中道主義にこそ明るい未来の希望がもてるのではないでしょうか。
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2008年12月12日

中道論

中道論
(1)ブッダの中道の教え
ブッダは、二つの極端な生き方を避けよと中道の道について次のように述べています。
「比丘たちよ、出家者はこれら二つの極端に近づくべきではない。二つとは何であるか。一つは、種々の欲望において欲楽に耽(ふけ)ることであり、それは下劣で、卑しく、世俗の者の行いであり、高尚でなく、ためにならないものである。他の一つは、自ら苦行をなすことであり、それは苦しみであり、高尚でなく、ためにならないものである。比丘たちよ、如来(にょらい)はこの両極端に近づかないで中道をさとったのである」野々目了訳「四つの聖なる真理(四聖諦)」(『原始仏典 第6巻 ブッダのことば4』)、講談社、1986年
(2)中道についてのサルカールの説明
サルカールの言葉では、欲望にふけることはアヴィディヤーです。苦行・修業をしてゆくことはヴィデヤーです。サルカールは、心がスピリチュアルな意味での中心点に向う精妙化の運動をヴィデヤーと言います。反対に心が物質世界に向っている粗大化の運動をアヴィディヤーと言います。心は念じるものに近づきますから、スピリチュアルな中心点である普遍意識(パラマ・プルシャ)を念ずれば精妙化してゆきます。そして物質でてきた偶像を念じたり、お金を念じたり、この世での名声を念じたりすれば、心は粗大化してゆきます。それがアヴィディヤーです。
サルカールはこの両方のバランスをとって進みなさい。どちらか一方に進むことは闇に向って進むことですと言いました。この点では、ブッダが世俗の快楽でもなく、苦行でない道を進みなさいと述べていることと同じです。
したがって中道とは、ヴィディヤーとアヴィディヤーのどちから一方に進まず、それらのバランスをとって進んでゆく道と解釈できます。しかし、サルカールの「中道」の説明によれば、そうではありませんでした。
サルカールによれば、ヴィディヤーとアヴィディヤーの両方を超越した状態に達する道が中道です。すなわちより高い、あるいはより深い存在領域(ローカ)に達する道が中道です。より高い在領域に到達するという根本を忘れて、日々の俗的生活、あるいは瞑想をしても時間の無駄ですよと言うのです。

八正道
ブッダは、彼の「中道」の中身を八正道として具体的に次のように説明しています。
「中道とは何であるか。実にそれは八つの聖なる道(八聖道)である。すなわち、正しい見解、正しい思惟、正しいことば、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい念い(おもい)、正しい精神統一である。比丘たちよ、これが実に如来がさとった中道であり、眼を生じ、知を生じ、寂静・神通・正しい覚り・涅槃に導くものである」野々目了訳「四つの聖なる真理(四聖諦)」(『原始仏典 第6巻 ブッダのことば4』)、講談社、1986年
八正道は、「正見、正思, 正語、正業、正命、正精進、正念、正定」としてお経の本に出てきます。サルカールによれば、八正道は、生きている一般の人向けのブッダの教えです。

http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/member/mitsuki/buddhasarkar3.htmより転載


中道とはより高い次元のものだとは思いませんでした。池田先生が仰る中道とはこれ以上のことなのか?深く研鑽してまいります。
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2008年12月11日

創共協定のスピリット継承と中道の意味

 創共協定は1974年12月28日、、松本清張の仲介で相互不可侵・共存を約した協定を10年間の約束で結んだ。
 ここで当時の共産党委員長である宮本顕治氏と先生との対談の意味を考えたい。
 対談のなかで、「中道」の意味で二人の意見が一致したそうです。
はたして、その「中道」とは?


創共協定のスピリット継承と中道の意味

吉見道夫

1)
1974年に松本清張の仲介で故宮本顕治氏と池田大作氏が会談し、創共協定を結んだ時、毎日新聞に二人の対談が連載されました。
「中道」の意味についての二人の考えが一致していた覚えがあります。
当時、公明党は、非自民、反共産の「中道」社公民路線をとっていました。しかし、二人の会談では、中道とは、そのような右と左の真ん中という意味ではないということで一致していました。
しかし、当時の私は、では仏教でいう「中道」という意味がなんであるのか、理解できませんでした。

2)
ここ8年間くらい朝晩、短時間瞑想(直観科学)しつつ、サーカーやウィルバーを研究してみて、中道の意味がわかりました。中道とは、右へゆく道と左へゆく道の真ん中ではなく、存在レベルを一段一段進化させる道です。右でも左でもなく階段を下りてゆく、あるいは上がってゆく三つ目の道なのです。

ウィルバーの「進化の構造」的な例えで言うと
宇宙の存在は、原子が出現し、分子が出現し、細胞が出現するというふうに前者を「含んで超える」新たなより高次の存在レベルが出現してきました。
「中道」とは、水素原子と酸素原子のどっちがとういことではなく、水分子という原子より高次の存在になる道です。物質圏を「含んで超えて」生命世界が出現し、生命圏を「含んで超えて」人間圏が出現しました。そして人間世界を「含んで超えて」(スピリット=神)圏が登場します。そして人間がより高次の存在に進むことが「中道」というわけです。
「心が存在のより高い層に達することは、「深み」とともに「抱擁する領域」が広がることです。幼児期は、自分のことだけが視界に入り、子ども時代には家族が視界に、さらに自分の住む地域が視界に入り、そして全人類、全生命、全存在が視界に入ります。
存在のすべてが「抱擁する領域」として自分の愛の枠内に入る時、スピリチュアリティの極みに達しています。だから、存在の層のより高みに達してゆく「中道」は人間生命を最高の実現に導く道です」


http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/shiminshakaiforum/125soukyoukyouteichudou.htmlより転載


 先生がよく「中道でいきなさい」と仰ります。中道という言葉は今まで、安易に聞き流していましたが、こんなにも深い意味があったとは思いませんでした。寛容・慈悲・対話を主柱とする 「人間主義」こそまさに「中道」であると思います。
posted by 元 at 16:06| Comment(3) | TrackBack(0) | 中道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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