2010年05月20日

祈りについて



 最近唱題していて違和感を覚えた。 願望を祈ることへの罪悪感だった。 苦難や悩みから逃げたいし、さらには、仕事での成功など欲望に拍車がかかり更なる欲望と自己顕示欲へ助長させてしまっていた。 苦難や苦しみを乗り越えようとするのも願望だった。

四条金吾殿御返事

苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ  
(御書 P1143)


 苦をば苦と悟りとは、逃げる事でもなければ乗り越えようとすることではなく、苦を感じて自身の心がどう反応するか、どうしてそう感じるのかと見ると原因が自分の中にみえてくる。 
 楽をば楽とひらきとは、苦と同じように自身の中に見出し、何故楽と感じるのか掘下げると感謝すべきことを知りうる。
 【自受法楽】とは「法楽は世間的な欲望充足の幸福である欲楽に対する語で、仏の悟りを享受する最高絶対の幸福をいう。」 であるなら、願望を含め欲望から発祥した祈りは相対的幸福しか得られず、絶対的幸福境涯を得るためにはそれから離れた祈りでなければ得る事はできないし、得ようとすれば、それもまた願望である。

 そう考えると祈りは「観心」なのか?

【観心】「己心を観ずること。心を対境としてそれを明らみにみていくこと。」

如来滅後五五百歳始観心本尊抄

観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり
(御書 P240)


 御本尊様は私たちの生命そのものを顕しているならばそれを明鏡として観ずることが祈りということになるのでしょうか。


 祈りと観心の関係をもっと勉強します。 教学は難しい・・・。
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posted by 元 at 19:51| Comment(8) | TrackBack(0) | 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
■元さん、おはようございます。

元さんは、「どう思って。何を願って」信心を始めましたか。
私は、「御本尊に対するこの人の罪業を消したい。
この人に信心をしてもらいたい。
この人の妻がのびのびと信心出来る環境にしたい。」
という、
「相手を救いたいという、私の強い願い=願望」から私は信心を始めました。

「相手を救う」と言うと、「傲慢だ」と感じる方もいると思いますが、傲慢だとか、「願望=他力本願になってしまわないか」などと、私は難しく考えませんでした。

「この人を救いたい」という自分の願い・祈りに、
「広宣流布の願い」を絡めて、私は信心を始めました。

「この仏法を相手や周りに伝えて行くんだ」という誓願です。

■当時の私は、内得信仰で情報に触れられない環境でしたから、学会独特な語彙をはじめは知らない事が多かったです。
ネットで学会員による「使命!使命!」という言葉を目にした時に、「使命?」と違和感を覚える事がありました。
「使命」を口にし、「使命という語彙の使い方が云々と、まるで使い方について同志を責めるように書き込む学会員の姿」を目にする事があったからです。
その発信者からは、語彙の用法に拘る=頭に頼り頭でっかちな姿が見えました。
重箱の隅をつつく姿のあさましたが、そこにはありました。
■私は、信心を始めたばかりの頃、整理された情報に触れられずに、祈り始めました。

それでも祈りがいつも叶っていたのは広宣流布への誓願があればこそ。

学会の機関紙におどる語彙を知らずとも、誓願⇒使命に繋がりました。

だから私は、ネットを見た時に、「意味を体感で掴まないままに言葉だけを使ってしまい分かったつもりになっているユーザーが多いな」と感じる事があったんです。

■経済苦、病苦、他の苦…など、「様々な苦から逃れたい願望」から、信心を始める人は、当然いますよね。

そこからその願望が広宣流布への大きな願いになり、誓願になり、使命になっていく。
小我から大我へ。

だから、戒律主義の教えのように、自分の願望を排除しようと苦しむ必要が、この信心には無いですよね。

■苦しみから逃れたい、または歓喜に触れて、など、発心の動機は人それぞれですが、元さんの初心はどうでしたか。

教学研鑽を深める事は必要ですが、向き合うのは頭ではなく自分自身。

広宣流布に繋げて祈る大我に沿うのなら、ありのままの元さんの願いで大丈夫と思いますよ。
Posted by 凰陣 at 2010年05月23日 05:58
すみません、送信エラーと思い、再送信したコメントがだぶりました。
だふったコメントを、削除依頼のこのコメントと共に削除願います。
Posted by 凰陣 at 2010年05月23日 07:50
凰陣さん、いつもコメントありがとうございます!
だぶったコメントの件了解しました。

願望や欲望を否定しているわけではないのです。 ただ、ありのままに祈っていたらそうおもったのです。 願望は煩悩です。私はただ自身が煩悩に支配された祈りに気づいたのです。広宣流布をしていても結果に縛られ、活動にしばられている感覚がなかったわけではなかったのです。 そして安易に正しいからという理由で、勘違いをして例えば重点区のお店の方に、忙しいのも関係なしにお願いしたりしていました。それは結果を出し先生にお応えしようとした誓願の祈りでやった結果です。 師のお心を理解できていない弟子、すなわち自分です。

>教学研鑽を深める事は必要ですが、向き合うのは頭ではなく自分自身。

自分自身に向き合うことが観心だとおもったのです。

私の本当の意味での発心動機は父への学会宣言で得た父のしがらみからの心の自由でした。それが初心の功徳で、感謝のおもいで信心の活動をするようになりました。 信心に入会したのは妻の振る舞いです。私が心から申し訳ないとおもえる振る舞いを妻がしたからです。

決して頭で考えて理解しようなどとはおもってはいません。心で感じたことを教学と御書を照らし合わせて確認しなければ我見になってしまうのが嫌だからです。

欲望に支配されるのではなく欲望だと気づくことで苦悩が感謝に変わるとおもいました。

私のブログの記事が後で読み直したら、勘違いしちゃうかも・・・ ごめんなさい;;

最近、記事を書いていても自分がおもった通りに書けないです。 私は国語が大の苦手というか嫌いです。 でも、克服したいと願っています←願望です(笑)

コメントいただけて本当に嬉しかったです。そして心づかいがありがたいです。

これからも宜しくお願いいたします!
Posted by 元 at 2010年05月24日 01:06
元さん、おはようございます。

■コメント拝見しました。
了解です。(`∇´ゞよかった。(*^o^*)

なんだか、すみませんでした。^^;

>コメントいただけて本当に嬉しかったです。そして心づかいがありがたいです。
これからも宜しくお願いいたします!

■過分なお言葉をありがとう。
元さんもお元気そうでよかったです。
Posted by 凰陣 at 2010年05月24日 05:58
ご心配お掛けしましてすいません。

ありがとうございます^^

Posted by 元 at 2010年05月24日 11:08
場違いの、コメント御許し下さい。
その後、男子部の部員さんの御母堂様の
御様態は、如何でしょうか?
本当に心配して居ります。。。
Posted by 速水長三郎 at 2010年05月25日 01:09
速水長三郎さん、心配お掛けしましてすいません。
お母さんの様態は順調ですが、6月に入ったら目の手術をしなければいけないそうです。

気にかけけて頂いていることをお伝えいたします。
Posted by 元 at 2010年05月25日 15:51
今度は、目ですかぁ。。。

御題目送らせて頂きます。
私の祈りでは不足だと思いますが・・・
本の気持ちでも伝われば幸いと存じます。

くれぐれも、魔に負けない様に
部員さんの御母堂様と、部員さんにお伝え下さい。
Posted by 速水長三郎 at 2010年05月26日 02:05
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