2009年04月30日

相手の仏性を信じ抜け

御義口伝

 不軽菩薩の四衆を礼拝すれば上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり、鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり
(御書P769)

【通解】
 不軽菩薩は(迫害のなか)慢心の四衆(僧・尼・在家の男女)に対しても、仏性があると礼拝した。その時、慢心の人々の仏性も、不軽菩薩を礼拝したのである。これはちょうど、鏡に向かって礼拝すれば、映った姿もまた、自分を礼拝しているようなものである。


 池田先生は「なにか“強引”であることが折伏だと思い込んでるとすれば、それは大変な勘違いであり、過ちです。折伏とは『真実を語る』ことです」と述べられている。「あなたにも必ず仏の生命がある」− この真実を、真剣に語り抜くのだ。
 ゆえに、少しでも常識に反したり、無礼や傲慢な振る舞いがあってはならない。丁寧に、ある時は厳父のような情愛をもって語ることだ。その時、相手の仏界は、鏡のようにこちらの誠実な姿を映し、礼拝し返す。相手を仏のごとく尊重すれば、相手の仏性も、こちらを敬うのである。
 これは「いつかそうなる」のではない。生命の次元においては、その瞬間瞬間に因果が刻まれる。そして時と共に、はっきりと表れてくる。
 あいての仏性を信じ抜く強さが、わが生命を豊かにしていく。折伏は、自身の人間革命を懸けた真剣勝負の挑戦なのである。

『御書をひもとく』より


 参りました。この部分を拝したときに一瞬時間が止まったような感覚を覚えました。たしかに人と接する時怒鳴れば相手方は怒ります。修羅界は修羅界で共鳴しあう。優しく接すれば相手方も親切に対応してくれる。誠意をもって接すれば相手方も誠意で応えてくれる。おもいとおもいが響きあう。鏡なのですね。
 折伏にしても自身の本心がどこにあるか。一念が本物なのか。この一点で相手方の生命が決まってしまう。
 折伏したあと縁が切れてしまったり、敵にしてしまったりしてしまうのは自身の命に原因があるということになります。その自身の生命を見つめ直す作業が必要であり、題目なのだとおもいました。日々唱題に励み自身を磨いてゆかねば。
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posted by 元 at 23:10| Comment(3) | TrackBack(0) | 折伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
不軽菩薩の振る舞いは中々出来ないですよね。
相手から見下されても卑屈にならずに相手の仏性を信じる。
今月の御書「中中へつらふならばあしかりなん」ですね。
堂々と立ち向かうのは、勇気が要ります。
確かなのは自分の中に仏性がある事、延いては相手にも仏性がある事です。
だから自分の仏性を引き出すお題目が大事なのでしょう。
Posted by JunkDark at 2009年05月01日 14:50
ほんとそうですね。
御聖訓に「深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり」とありますように、題目が大事ですね!お互い唱題根本で頑張りたいですね!

PS・修羅シュシュシュから抜けられません(笑)
Posted by 元 at 2009年05月01日 18:30
つい磨くのを怠るんですね(笑)
しかも曇ってるのに気が付かない(:_;)
一人だと駄目ですね、同志と共にp(^^)q

修羅シュシュシュは生命に刻まれた様ですね(笑)
Posted by JunkDark at 2009年05月02日 00:32
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