2009年02月28日

佐渡御書 8

 法華経には「諸の無智の人有り悪口罵詈等し刀杖瓦石を加うる乃至国王大臣婆羅門居士に向つて乃至数数擯出せられん」等云云、獄卒が罪人を責ずば地獄を出る者かたかりなん当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難し日蓮は過去の不軽の如く当世の人人は彼の軽毀の四衆の如し人は替れども因は是一なり、父母を殺せる人異なれども同じ無間地獄におついかなれば不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき又彼諸人は跋陀婆羅等と云はれざらんや但千劫阿鼻地獄にて責られん事こそ不便にはおぼゆれ是をいかんとすべき、彼軽毀の衆は始は謗ぜしかども後には信伏随従せりき罪多分は滅して少分有しが父母千人殺したる程の大苦をうく当世の諸人は翻す心なし譬喩品の如く無数劫をや経んずらん三五の塵点をやおくらんずらん。
(御書P960・9行目〜16行目)


(通解)
 法華経には「多くの無知な人々がいて、法華経の行者を悪しざまに罵り、刀や棒で打ち、瓦礫や石を投げつけるであろう。・・・法華経の行者はたびたびその土地を追われるであろう」(勧持品第13)とある。
 地獄の鬼が罪人を責めなければ、罪を滅して地獄を出る者はいないであろう。今の国主やその臣下がいなければ、日蓮の過去の謗法の重罪を消すことはできない。日蓮は過去の不軽菩薩の立場と同じであり、今の世の人々はまるで不軽菩薩を軽んじ罵ったものたちである。人が代っても、この因は同じである。父母を殺す人は誰であっても同じ無間地獄に堕ちる。どうして不軽菩薩と同じ実践をして日蓮一人が釈迦仏とならないことがあろうか。また、今日の人々は跋陀婆羅等と言われないことがあろうか。ただ千劫の間、阿鼻地獄において責められることこそ不憫に思われる。これをどうすることができようか。
 不軽菩薩を軽んじ罵った人々は、はじめは誹謗していたけれども、後には信奉し、付き従った。罪の多くは消滅して、わずかに残ったが、その分だけでも父母を千人殺したほどの大きな苦しみを受けた。今の世の人々は、悔い改める心がない。譬喩品にあるように阿鼻地獄で無数劫という長い間を過ごすことになるだろう。さらには、三千塵点劫や五百塵点劫という長遠な歳月を送ることになるだろう。

posted by 元 at 01:03| Comment(1) | TrackBack(0) | 御書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 信心をする”時”!祈伏する”時”・・何事にも”時”と言うものは大切ですよね・・お疲れ様です。 3/1:修善寺由緒ある新井旅館から老人ホームへ出向してるデイ・サービスで節分の日に【鬼に扮して【チェインジ】することが出来た!】・・【サラリーマン編】 デイ・サービス実際の写真を多くいれ、楽しんでる写真・面白い漫画・動画を存分に楽しんで見て下さい。可愛いワンコ写真は、相互リンク「みゆきな日々」さんのペットです。 <m(__)m> コメント等いただけたら幸いです。 遊びに寄ってやって下さいね。待ってますです。尚、自分の【学生編】当過去ブログにも、当時の写真・面白い・可愛い・画像・動画ありますので、時あれば、楽しんで見てやって下さい。 
Posted by 智太郎 at 2009年03月01日 05:33
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