2009年02月19日

佐渡御書 5

日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば今生に念仏者にて数年が間法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一等と笑しなり今謗法の酔さめて見れば酒に酔る者父母を打て悦しが酔さめて後歎しが如し歎けども甲斐なし此罪消がたし、何に況や過去の謗法の心中にそみけんをや経文を見候へば烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし外道は知らずして自然と云い今の人は謗法を顕して扶けんとすれば我身に謗法なき由をあながちに陳答して法華経の門を閉よと法然が書けるをとかくあらかひなんどす念仏者はさてをきぬ天台真言等の人人彼が方人をあながちにするなり、今年正月十六日十七日に佐渡の国の念仏者等数百人印性房と申すは念仏者の棟梁なり日蓮が許に来て云く法然上人は法華経を抛よとかかせ給には非ず一切衆生に念仏を申させ給いて候此の大功徳に御往生疑なしと書付て候を山僧等の流されたる並に寺法師等善哉善哉とほめ候をいかがこれを破し給と申しき鎌倉の念仏者よりもはるかにはかなく候ぞ無慚とも申す計りなし。
(御書P959・6行目〜14行目)


(通解)日蓮も過去の謗法の種子をもったものなので、今世では念仏者となって数年の間、法華経の行者を見ては「未だに成仏した者が一人もいない(未有一人得者)」「千人のうち一人もいない(千中無一)」などと嘲笑っていた。今、その謗法の酔いが覚めてみると、酒に酔った者が父母を殴って喜んでいたのが、酔いが覚めたあとに後悔するようなものである。後悔してもどうすることもできない。この罪は消しがたいのである。
 まして心中に染まった過去の謗法はなおさらである。経文を拝見すると、烏が黒いのも鷺が白いのも過去世の業が強く染み込んだためなのである。外道はそれを知らずに自然であるといい、今の人は、日蓮が謗法の罪を経文によって明らかにして助けようとすると、自分の身には謗法がないと強く言い張って、「法華経の門を閉じよ」と法然が書いていることについてさえ、あれこれと抗弁してくるのである。
 念仏者はさておき、天台宗や真言宗などの人々までが、ことさらに、念仏の味方をするのである。
 今年一月十六日と十七日に佐渡の国の念仏者など数百人、その中の印性房という者が念仏者の中心であったが、日蓮のもとに来てこのように言った。「法然上人は法華経を抛てと書かれたのではない。一切衆生に念仏を唱えさせたのである。この念仏の大功徳によって極楽浄土に生まれることは疑いないと書き記したのを、比叡山の僧で佐渡に流されている者たちや園常寺の僧たちが、『素晴らしい、素晴らしい』とほめているのに、なぜ、あなたは念仏を破るのか」と。鎌倉の念仏者よりはるかに愚かであり、恥知らずというしかない。
posted by 元 at 00:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 御書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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