2009年02月17日

佐渡御書 3

 日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず不軽品に云く「其罪畢已」等云云、不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり魚鳥を混丸して赤白二・とせり其中に識神をやどす濁水に月のうつれるが如し糞嚢に金をつつめるなるべし、心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり心も又身に対すればこそ月金にもたとふれ、又過去の謗法を案ずるに誰かしる勝意比丘が魂にもや大天が神にもや不軽軽毀の流類なるか失心の余残なるか五千上慢の眷属なるか大通第三の余流にもやあるらん宿業はかりがたし鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし、我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし
(御書P958・8行目〜16行目)


(通解) また、日蓮がこのように迫害されるのも、過去世からの業がないわけではない。不軽品には「過去の罪の報いを受け終わって(其罪畢已)」と説かれている。不軽菩薩が数え切れないほどの謗法の人々に罵られ、打たれたことも過去世の業の報いであったということである。ましてや日蓮は今生では貧しく卑しい身分の者であり、栴陀羅の家の出身である。心でこそ少し法華経を信じているようであるが、体は人間に似ながら畜生の身である。魚や鳥を食べている両親の赤白二H(卵子と精子)から生まれ、その中に精神を宿している。それは、濁った水に月が映っているようなものである。糞を入れる袋の中に金を包んでいるようなものである。心は法華経を信じているので、梵天や帝釈さえも恐ろしいとは思わない。しかし、身は畜生の身である。心と体が釣り合っていないので愚者が侮るのも道理である。
 心と体を比べるからこそ、月や金にも譬えることができる。
 また、過去世の謗法を考えてみれば、だれが本当のことを知ることができようか。我が心は勝意比丘の魂であろうか。大天の魂であろうか。不軽菩薩を軽んじ罵った者たちの類だろうか。寿量品にある、謗法の毒気が深く入り、本心を失った者の残りだろうか。法華経の説法の場から立ち去った五千人の増上慢の眷属だろうか。大通智勝仏の昔に法華経に縁しても発心しなかった者たちの流れを汲んでいるのだろうか。宿業ははかり知れない。
 鉄は鍛えて打てば剣となる。賢人・聖人は罵られて試されるのである。私がこの度受けた処罰には世間における罪は全くない。専ら過去世の業の重罪を今世で消し、後生の三悪道の苦しみを免れるためのものなのである。
posted by 元 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 御書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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