2009年02月14日

佐渡御書 1


  文永九年三月 与弟子檀那 五十一歳御作

此文は富木殿のかた三郎左衛門殿大蔵たうのつじ十郎入道殿等さじきの尼御前一一に見させ給べき人人の御中へなり、京鎌倉に軍に死る人人を書付てたび候へ、外典抄文句の二玄の四の本末勘文宣旨等これへの人人もちてわたらせ給へ。
 世間に人の恐るる者は火炎の中と刀剣の影と此身の死するとなるべし牛馬猶身を惜む況や人身をや癩人猶命を惜む何に況や壮人をや、仏説て云く「七宝を以て三千大千世界に布き満るとも手の小指を以て仏経に供養せんには如かず」取意、雪山童子の身をなげし楽法梵志が身の皮をはぎし身命に過たる惜き者のなければ是を布施として仏法を習へば必仏となる身命を捨る人他の宝を仏法に惜べしや、又財宝を仏法におしまん物まさる身命を捨べきや、世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし又主君の為に命を捨る人はすくなきやうなれども其数多し男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ、魚は命を惜む故に池にすむに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむしかれどもゑにばかされて釣をのむ鳥は木にすむ木のひきき事をおじて木の上枝にすむしかれどもゑにばかされて網にかかる、人も又是くの如し世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし。
仏法は摂受折伏時によるべし譬えば世間の文武二道の如しされば昔の大聖は時によりて法を行ず雪山童子薩(タ)・王子は身を布施とせば法を教へん菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ、肉をほしがらざる時身を捨つ可きや紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし、破戒無戒を毀り持戒正法を用ん世には諸戒を堅く持べし儒教道教を以て釈教を制止せん日には道安法師慧遠法師法道三蔵等の如く王と論じて命を軽うすべし、釈教の中に小乗大乗権経実経雑乱して明珠と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は天台大師伝教大師等の如く大小権実顕密を強盛に分別すべし、畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる諛臣と申すは是なり強敵を伏して始て力士をしる、悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべしおごれる者は強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し、正法は一字一句なれども時機に叶いぬれば必ず得道なるべし千経万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず。
(御書P956〜957・12行目)


 
(通解) この手紙は、富木殿のもとへ送り、三郎左衛門殿、大蔵塔の辻の十郎入道殿ら、桟敷の尼御前、その他これを御覧になっていただくべき方々一人一人に宛てたものです。京都と鎌倉での合戦で亡くなった方々の名前を書き記して届けてください。「下典抄」「法華文句」の第2巻、「法華玄義」の第4巻とその注釈書、「勘文」や「宣旨」などを、こちらへ来られる人々は、持っておいでください。
 世間一般において人が恐れるものは、炎に包まれることと、剣をかざして襲われることと、この身が死に至ることことである。
 牛や馬でさえ身を惜しむ。まして人間であればなおさらである。不治の病にかかっている人でさえも命を惜しむ。まして健康な人なら言うまでもない。
 仏は次のように説く。「七つの宝を三千大千世界にあふれるほど敷き詰めて供養しても、手の小指を仏や法華経に供養することには及ばない(趣意)」(薬王品)と。雪山童子は鬼に身を投げ与え、楽法梵志は身の皮を剥いだ。命以上に惜しいものはないのだから、その身命を布施として仏法を修行すれば必ず仏となる。
 身命をも捨てる人が、他の宝を仏法のために惜しむだろうか。また、財宝を仏法のために惜しむような者が、それより大事な命を捨てることができるだろうか。
 世間の道理でも、重き恩に対しては命を捨てて報いるものである。また、主君のために命を捨てる人は少ないように思われるけれども、その数は多い。男は名誉のために命を捨て、女は男のために命を捨てる。
 魚は、命を惜しむため、すみかとしている池が浅いことを嘆いて、池の底に穴を掘って棲んでいる。しかし、餌にだまされて釣り針を呑んでしまう。鳥はすみかとしている木が低いことを恐れて、木の上の枝に棲んでいる。しかし、餌にだまされて網にかかってしまう。
 人もまた、これと同じである。世間の浅いことのために命を失うことはあっても、大事な仏法のためには身命を捨てることが難しい。それゆえ、仏になる人もいないのである。
 仏法においては、摂受と折伏のどちらかを実践するのかは、「時」に応じて決まるのである。譬えていえば、世間でいう文武の二道のようなものである。
 それゆえ、過去の偉大な聖人のは時に応じて仏法を修行したのである。
 雪山童子や薩(タ)王子は、「身を布施とすれば法を教えよう。その布施行が菩薩の修行にあたるだろう」と迫られたので身を捨てた。肉をほしがらない時に身を捨てるべきだろうか。紙のない時代には身の皮を紙とし、筆のない時には骨を筆とするべきである。
 戒律を破る人や戒律を持たない人が非難され、戒律を持ち、正法を行ずる人が重んじられる時代には、さまざまな戒律を堅く持つべきである。国王が儒教うや道教を用いて仏教を弾圧しようとする時には、道安法師や、慧遠法師、法道三蔵らのように、命もかえりみず、国を諌めるべきである。
 仏教の中に小乗と大乗、権教と実教、顕教と密教の違いを厳然と立て分けるべきである。
 畜生の心は、弱い者を脅し、強い者を恐れる。今の世の僧たちは、畜生のようなものである。知者の立場が弱い事を侮り、王の邪悪な力を恐れている。こびへつらう臣下とは、このよな者をいうのである。強敵を倒して、はじめて力ある者であるとわかる。
 悪王が正法を破ろうとし、邪法の僧たちがその味方をして、智者をなきものにしようとする時は、師子王の心を持つ者が必ず仏になるのである。例を挙げれば、日蓮である。
 これは、おごりによるもののではない。正法を惜しむ心が強盛だからである。おごっている者は、強敵にあうと必ず恐れる心が出てくるものである。例を挙げれば、おごり高ぶった阿修羅が帝釈に攻められて、無熱池の蓮の中に身を縮めて隠れたようなものである。
 正法は、一字一句であっても、時と機根にかなった実践をすれば、必ず成仏するのである。どれほど多くの経文や論書を習い学んだとしても、時と機根に相違していれば、決して成仏はできない。


posted by 元 at 00:56| Comment(1) | TrackBack(0) | 御書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 コメント返しがおそくなりました。
 自分の近況ですが、78歳になる父が、検査入院していたのですが他界しました。葬儀等でバタバタしておりました。父は未入信でしたが、学会の友人葬として遺言通り、質素にやるつもりだったのですが、多くの方がみえ、成仏し、霊山に旅たちました。
また、みずみずしく、人間の生命として誕生してくるでしょう。
 父の他界の記録は後日詳細に書きますが、
ともかく、当時の自分は、お年寄りを介護しながら、出向の身でしたが、皆様に楽しんでいただける様にを旨に、自分も楽しく、頑張った事を覚えております。他人の為!と言えども、「色心不二」と言えるでしょうか?
自分も楽しく皆さんも楽しませる事が出来て良い出向期間の思い出でした。
Posted by 智太郎 at 2009年02月14日 12:11
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