2008年12月24日

一生成仏抄

都て一代八万の聖教三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとはゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し  御書 P383

(通解)釈尊一代の八万法蔵といわれる聖教、三世十方の諸仏菩薩も、すべててわが心の外にあるとは、ゆめゆめ思ってはならない。しかれば、仏教を習うといっても、自己の心性を観じなければ、全く生死の苦しみを離れることはできない。もし自分自身の心の外に道を求めて万行万善を修めても、たとえみれば、貧しい人が、日夜に隣の人の財宝を数えてみても、半銭も自分のものとはならないようなものである。



 自己の心性を観じていくとは、自身を見下ろすことなのでしょうか。
今、自身の欲望、苦しみ、嘆き、虚しさなど様々観じられます。業の深い自分であるとただただ思う。だからこそ一歩一歩前へ進みたく思う。
いい心悪い心を受け止め自他共の幸福を祈りたい。観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し
如来滅後五五百歳始観心本尊抄 P240
posted by 元 at 02:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 御書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へスカウター : 人間主義の旗を!
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。