ところで、ヒューマニズムを言う限り、最大の武器、コミュニケーションの手段が対話 ― 人類史とともに古くて新しい課題であり続ける対話に帰着することはいうまでもない。古来、“対話的存在”であることは、人間の本質に根ざし続けており、対話が途絶することは、人間が人間であることをやめるに等しい。いうなれば、対話なき社会は墓場といっても過言ではありません。
古くはソクラテスが「およそ人の心がおちいる状態で、この、言論を忌み嫌うということほど、不幸なものはありえない」(藤沢令夫訳「パイドン」、『世界古典文学全集14 プラトンT』筑摩書房)として、言論嫌い(ミソロゴス)を人間嫌い(ミサントローポス)と同根としました。
また近くは、例えば、昨年亡くなったドイツの碩学カール・フォン・ヴァイツゼッカー氏(私が会談したドイツ元大統領の長兄)は、「人間とは共に生きるための、人生の対話者という存在である」(小杉尅次・新垣誠正訳『人間とは何か』ミネルヴァ書房)と喝破しております。
この種の証言は枚挙にいとまがなく、それは、言論や対話が、いかに人間を人間たらしむる本質的要件であるかを物語っております。人間が善き人間であろうと、つまり叡知人(ホモ・サピエンス)たらんとすれば、同時に言語人(ホモ・ロクエンス)として、対話の名手でなければならない。
特に、対話と対極に位置する狂言や不寛容の歴史を引きずる宗教の分野にあっては、ドグマを排し、自己抑制と理性に裏打ちされた対話こそ、まさに生命線であり、対話に背を向けることは、宗教の自殺行為といってよい。したがって、仏法を基調とする人間主義を推し進めるにあたって、いかに狂言や独善、不信といった問答無用(原理主義)の壁が立ちはだかろうと、この、対話こそ人間主義の“黄金律”であるという旗だけは、断じて降ろしてはならないと訴えておきたいと思います。
途中で途絶しては対話とはいえず、真の対話は、間断なき持続的対話として貫徹されねばならない ― こうしたホモ・ロクエンスの進化を発揮するには、相応の間断なき精神闘争を要するはずです。
それには、人間の「強さ」「善良さ」「賢明さ」など美質が、総動員されなければならない。そして、真の宗教は、それら美質を顕現させゆく駆動力でなくてはならない。すなわち「人間革命の宗教」でなければならないというのが、私の変わらぬ信念であります。故に、ハーバード大学での講演※でも、その点を踏まえ、21世紀文明に果たすべき大乗仏教の精髄について、論及したのであります。
※http://www.sokanet.jp/sg/FWIM/sn/soka-info/achievements/library_01.html
2008-1-26 第33回 「SGIの日」記念提言 「平和の天地人間の凱歌」
人間のための宗教であり哲学であるからこそ本当の人間主義なのです。対話ではじまり対話で終われる人生でありたいと願う。
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