2009年02月28日

佐渡御書 8

 法華経には「諸の無智の人有り悪口罵詈等し刀杖瓦石を加うる乃至国王大臣婆羅門居士に向つて乃至数数擯出せられん」等云云、獄卒が罪人を責ずば地獄を出る者かたかりなん当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難し日蓮は過去の不軽の如く当世の人人は彼の軽毀の四衆の如し人は替れども因は是一なり、父母を殺せる人異なれども同じ無間地獄におついかなれば不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき又彼諸人は跋陀婆羅等と云はれざらんや但千劫阿鼻地獄にて責られん事こそ不便にはおぼゆれ是をいかんとすべき、彼軽毀の衆は始は謗ぜしかども後には信伏随従せりき罪多分は滅して少分有しが父母千人殺したる程の大苦をうく当世の諸人は翻す心なし譬喩品の如く無数劫をや経んずらん三五の塵点をやおくらんずらん。
(御書P960・9行目〜16行目)


(通解)
 法華経には「多くの無知な人々がいて、法華経の行者を悪しざまに罵り、刀や棒で打ち、瓦礫や石を投げつけるであろう。・・・法華経の行者はたびたびその土地を追われるであろう」(勧持品第13)とある。
 地獄の鬼が罪人を責めなければ、罪を滅して地獄を出る者はいないであろう。今の国主やその臣下がいなければ、日蓮の過去の謗法の重罪を消すことはできない。日蓮は過去の不軽菩薩の立場と同じであり、今の世の人々はまるで不軽菩薩を軽んじ罵ったものたちである。人が代っても、この因は同じである。父母を殺す人は誰であっても同じ無間地獄に堕ちる。どうして不軽菩薩と同じ実践をして日蓮一人が釈迦仏とならないことがあろうか。また、今日の人々は跋陀婆羅等と言われないことがあろうか。ただ千劫の間、阿鼻地獄において責められることこそ不憫に思われる。これをどうすることができようか。
 不軽菩薩を軽んじ罵った人々は、はじめは誹謗していたけれども、後には信奉し、付き従った。罪の多くは消滅して、わずかに残ったが、その分だけでも父母を千人殺したほどの大きな苦しみを受けた。今の世の人々は、悔い改める心がない。譬喩品にあるように阿鼻地獄で無数劫という長い間を過ごすことになるだろう。さらには、三千塵点劫や五百塵点劫という長遠な歳月を送ることになるだろう。

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2009年02月27日

願兼於業

仏法では「願兼於業」(願、業を兼ぬ)と説く。自ら願って、悪世に生まれて妙法を弘通することをいう。
 われらは本来、末法濁悪の世に妙法を弘めんがために出現した、地涌の菩薩である。そのために、自ら願い求めて、あえて苦悩多き宿命を背負い、妙法の偉大さを証明せんと、この世に出現したのだ。
 ゆえに、地涌の菩薩の使命に目覚め、広宣流布に生き抜くならば、転換できぬ宿命など、絶対にないのだ。


2009-2-27 聖教新聞 新・人間革命 潮流28

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2009年02月26日

矢野氏の参考人招致 民主・輿石氏、今国会中の実現に意欲



 民主党の輿石東参院議員会長は26日の記者会見で創価学会幹部を提訴した矢野絢也・元公明党委員長の参考人招致について「麻生内閣としての最後の予算委員会になるかもしれないので、きっちりかたを付けていかなければならない」と述べ、今国会中の実現に意欲を示した。

2009-2-26 日経ネット
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米国民をしかったリーダー

社説2 米国民をしかったリーダー(2/26)
 経済危機克服への決意と方針をうたったリーダーは同時に、企業や国民の無責任さが危機を招く原因になったとしかり、責任の自覚と改革の大切さを説いた。

 オバマ米大統領は麻生太郎首相と会った24日の夜、上下両院合同の本会議で演説した。開始早々、経済危機の原因に関してこう述べたのが目を引いた。

 「我々の経済は一夜にして傾いたのではない」「短期的な利益が長期的な繁栄より重視される時代を過ごしてきた。……黒字が出ても未来へ投資する機会ととらえず、富める者にさらに富を移す口実にした。……規制は短期の利益を得るために骨抜きにされた。人々はローンを支払う能力がないことを知りながら住宅を購入した。重要な論議や難しい決定は後回しにされた」

 そして「今必要なのは団結し、直面する困難に大胆に対応し、未来に責任を持つこと」と呼びかけた。

 最近の米大統領には珍しく、この国の内なる問題を率直に語った。人々の内省を危機克服への第一歩にしようという考えがうかがえる。

 危機対応策では、金融安定化に向けた政府の一層の関与をうたう一方、中長期をにらんで環境・エネルギーや医療保険改革、教育などの分野に投資する考えを示した。共和党が「大きな政府」への傾斜を懸念していることについては「政府は企業にとって代わるのでなく、触媒となって、多くの(既存)企業や新ビジネスが順応し栄えるための条件をつくる」と景気対策を進めるなかでの政府の役割を明確にした。

 さらに、近く議会に提出する予算教書について、単なる事業のリストではなく「米国のためのビジョン、将来への青写真だ」と強調、議会に協力を求めた。4年間で財政赤字を削減する方針も表明している。

 全体として米国の経済危機を正直にとらえて国民に意識変革を求め、長期的視野からまっとうな政策をとるという誠実な姿勢が感じられる。米国の経済危機がそれだけ根深いことの裏返しともいえるが、人気取りに走らず、地道に問題に取り組もうという構えに期待したい。日本の指導者もそれを参考にする余地は大いにあるのではなかろうか。

2009-2-26 日経ネット
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2009年02月25日

3月度 座談会拝読御書

 曾谷殿御返事

 返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給うべし、釈尊は一切衆生の本従の師にて而も主親の徳を備へ給う、此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候

(御書P1056・12〜14行目)


(通解)

 かえすがえすも、本来、従うべき師を間違えないで、成仏していきなさい。釈尊は一切衆生の本従の師であって、しかも主と親の徳も具えておられる。この法門を日蓮が説くので、「忠言は耳に逆らう」という道理であるから、流罪されたり、命にも及んだのである。しかしながら、いまだ懲りてはいない。

(背景と大意)

 本抄は建治2年(1276年)8月、日蓮大聖人が身延の地から、下総(現在の千葉県・茨城県の一部)の曾谷殿に送られたお手紙です。
 曾谷一族の曾谷教信は、富木常忍・大田常明とともに下総方面の門下の中心的な存在であり、大聖人は、この3人に重書「勧心本尊抄」を託されています。教信には、このほかにも漢文体の難解な法門書が送られており、深い学識のある人物だったことが窺えます。本抄を送られた曾谷殿は、この教信か、教信に連なる一族の誰かであると考えられます。
 大聖人は、本抄の冒頭で、仏の智慧が広大無辺であることを教えた法華経方便品第2の「諸仏の智慧は甚深無量なり」との文を引かれ、仏になる道とは、この文に示された「境智の二法」にほかならないと仰せになります。
 宇宙の生命を貫く真理(境)と、それを照らし顕す智慧(智)−この「境智の二法」を得たとき、私たちも、その身のままで仏の境涯を顕すことができるのです。
 続いて大聖人は、この「境智の二法」とは南無妙法蓮華経であり、この妙法を釈尊から結要付属(別付属)された上行等の地涌の菩薩が、末法に出現して広宣流布することは経文に明らかであると仰せになります。
 その際、妙法を末法に先駆けて弘める大聖人こそ上行菩薩の再誕であり、末法の師匠たる存在であることを示されます。
 また、末法の僧等は、仏法の道理を知らず、師匠を卑しんで檀那に媚びへつらっていると述べられ、法華経の敵を見ながら責めなければ無間地獄は疑いない、また、謗法を責めずして成仏を願っても成仏は叶わないと厳しく断じられています。
 続いて、師弟の縁が三世に続くことを示す法華経の文を引かれて、従うべき師匠を決して誤ってはならないと戒められ、「いまだこりず候」と、命に及ぶ大難にも決して屈することはない民衆救済の御決意を示されます。
 

 師弟こそ勝利の力!

 師匠ほどありがたいものはありません。師匠とともに歩む人生には、正しい軌道があり、弛みない前進があります。
 なかんずく仏法の師弟は今世だけではありません。大聖人は、本抄で「本従を違えずに成仏していきなさい」と仰せです。「本従」とは「本、この仏に従って初めて求道心を起こし、この仏に従って不退転の位に住する」という天台大師の『法華玄義』に由来する言葉です。このように三世にわたって師匠とともに歩むところに成仏の大境涯が開けてくるのです。
 続いて大聖人は、釈尊を一切衆生の「本従の師」と仰せです。本抄では、法華経の説法の会座で、釈尊が上行菩薩に、妙法を末法に流布するように託したと述べられ、さらに、大聖人こそ、その上行菩薩の使命を担う「根源の師」であると明かされています。この本抄全体の文意を踏まえると、大聖人こそ、末法の一切衆生にとって「本従の師」であると御教示されたものと拝されます。
 大聖人は、このように、一切衆生を成仏の境涯に高めゆく、最も正しい師弟の道を教えられました。ところが、当時の日本では、阿弥陀仏のような架空の仏を崇める誤った教えがはびこっており、大聖人の教えは、かえって激しい反発を招きました。その結果、幾たびにも命に及ぶ大難に見舞われたのでした。
 にもかかわらず、大聖人は「いまだ懲りてはいない」と仰せです。何があっても負けない。むしろ、苦難が大きければ大きいほど、それに倍する生命力を沸き出だして戦っていく。この不撓不屈の闘争にこそ日蓮仏法の魂があります。
 そして現代において、大聖人のごとく、いかなる大難にも屈せずに広布を進めてきたのが、創価の三代の会長です。
 池田名誉会長は語っています。「仏法は勝負だ。勝たねばならない。使命ある皆さんは、悔いなき人生を歩んでいただきたい。絶対に勝っていただきたい。そのために、師弟があるのだ。見栄とか飾りのためではない。仏法の師弟に生き抜く人生ほど、強いものはないのである」
 偉大なる師匠とともに偉大なる勝利の人生を堂々と歩んでいきましょう。



*本従  本従の師のこと。久遠以来、衆生を化導してきた師。一切衆生が根本として従うべき師。

*主親の徳  主の徳は、人々を守る力・働き。親の徳は、人々を育てて、慈しむ力・働き。

*忠言耳に逆らう  孔子の言行などを記した『孔子家語』に「忠言耳に逆らう」とある。真心からの忠告の言葉は、欠点や過ちを鋭く指摘しているゆえに、忠告された人は素直に聞き入れにくい、という意
  

2009-3 大百蓮華 No710
posted by 元 at 22:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 座談会御書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

前進

 もう一歩、
 たとえ半歩でも
 前進しよう!
 大求道の人こそ
 真の大勝利者!

2009-2-25 聖教新聞 わが友に贈る


 以前、メンバーさんが“今日は畳の目一本進めました”と言ったことがありました。凄いなとおもいました。そのときに、このメンバーさんの小さな勝利の因が必ず大勝利の因になると確信しました。
 現在、そのメンバーさんはGの大学校生として日々奮闘しています。
 私はおもいます。小さな決意と、小さな勝利それでいいと。自分を大きく見せる必要もなく、ただ昨日の自分より今日の自分が1mmでも前進できたかどうかが、どれだけ大切なことなのか。
 先生からの“半歩でも”この温かい激励のお言葉を深く感じたい。

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佐渡御書 7

 日蓮は此因果にはあらず法華経の行者を過去に軽易せし故に法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を或は上げ或は下て嘲哢せし故に此八種の大難に値るなり、此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり譬ば民の郷郡なんどにあるにはいかなる利銭を地頭等におほせたれどもいたくせめず年年にのべゆく其所を出る時に競起が如し斯れ護法の功徳力に由る故なり等は是なり
(御書P960・5行目〜9行目)


(通解) しかし、日蓮が受けている八種の報いは、今述べた因果によるものではない。法華経の行者を過去に軽んじたからであり、月と月を並べ、星と星をつらね、崋山に崋山を重ね、宝玉と宝玉とをつらねたように尊い経典でる法華経を、ある場合には私たちには深遠すぎてと棚上げにして、ある場合には見下して嘲笑ったために、この八種の大難に遭っているのである。この八種の大難は未来永劫にわたって一つずつ現れるはずだったものを、日蓮が強く法華経の敵を責めたことによって、八種の大難が一時に集まり起こったのである。
 譬えていえば民が郷や郡などのなかに住んでいるうちは、どれほどの借金を地頭などにしていたとしても厳しくは取り立てられず、次の年、次の年へと延ばしてもらえる。しかし、その土地を出る時には、すべてを取り立てられるようなものである。「正法を護持する功徳の力によるものである」とはこのことである。
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2009年02月23日

佐渡御書 6

いよいよ日蓮が先生今生先日の謗法おそろしかかりける者の弟子と成けんかかる国に生れけんいかになるべしとも覚えず、般泥・経に云く「善男子過去に無量の諸罪種種の悪業を作らんに是の諸の罪報或は軽易せられ或は形状醜陋衣服足らず飲食・疎財を求めて利あらず貧賎の家及び邪見の家に生れ或は王難に遇う」等云云、又云く「及び余の種種の人間の苦報現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり」等云云、此経文は日蓮が身なくば殆ど仏の妄語となりぬべし、一には或被軽易二には或形状醜陋三には衣服不足四には飲食・疎五には求財不利六には生貧賎家七には及邪見家八には或遭王難等云云、此八句は只日蓮一人が身に感ぜり、高山に登る者は必ず下り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賎の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり
(御書P959・15行目〜P960・5行目)


(通解) ますます、日蓮の過去世、今世、先日に至るまでの謗法は恐ろしい。あなた方は、どうして、このような者の弟子となったのであろう。どうして、この国にうまれたのであろう。この先、どのようになっていくのか思いもよらない。
 般泥洹経では「弟子たちよ。過去世に、はかり知れない多くの罪やさまざまな悪業をつくっていたならば、その罪の報いとして、あるいは人々に軽んじられ、あるいは醜い容姿となり、衣服は足らず、食べ物は粗末でわずかであり、富を求めても得られず、貧しい身分の低い家や誤った思想の家に生まれ、もしくは権力者による迫害に遭う」とある。さらに「また、他のさまざまな人間の過去世の行いの報いとしての苦しみを、現在の世において軽く受けるのは、正法を護持する功徳の力によるものである」とある。
 この経文は日蓮のこの身がなければ、間違いなく仏の偽りの言葉となったであろう。一には「あるいは人々に軽んじられる」、二には「あるいは醜い容姿となる」、三には「衣服は足りず」、四には「食べ物は粗末でわずかである」、五には「富を求めても得られず」六には「貧しく身分の低い家に生まれる」七には「誤った思想の家に生まれる」、八には「権力者による迫害に遭う」とある。この八句はただ日蓮一人がわが身で受けているのである。
 高い山に登るものは必ず下る。人を軽んじればかえって自分が人に軽んじられる。容姿が立派で端整な人を謗れば、その報いを受けて醜い容姿となる。人の衣服や食べ物を奪えば必ず餓鬼となる。戒律を持つ尊貴な人を笑えば、貧しく身分の低い家に生まれる。正法を信ずる家を謗れば誤った思想の家に生まれる。十善戒を待つ者を笑えば、一国の民に生まれてその国の王からの迫害に遭う。これらは通常の因果として定まった法である。
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2009年02月20日

世界が求め讃える創価の哲学


 世界的な金融危機が、影響は比較的小さいと言われていた日本の実体経済にも、深刻な打撃を与え始めた。過日、国内総生産(GDP)の二桁減少も明らかになった。
 そうした状況下、世界17カ国を対象に行われた金融危機に関する調査で、「日本人が先行きに最も悲観的」との結果が出たことが、先月末に報道されていた。中でも「金融危機対応についての、政府への信頼度」は、日本が他国に大きなポイント差をつけて最下位だったという。
 迷走する政治や、いたずらに不安をあおるマスコミの論調にも因はあろうが、決して悲観的な思考に落ち込むのではなく、この危機をどう乗り越えるかに知恵を絞りたい。
 社会の主体者は、あくまで我々一人一人である。
 庶民の暮らしを守るため政治家が真剣に努力するのは当然のことだが、その政治家を選び育てるのは国民だ。国民自身が人生と社会を切り開く哲学を持たなければ、何も変わらない。
 御書には「王は民を親とし」(1554ページ)と。民衆こそ国の主役。民衆あっての為政者である。激動の時代だからこそ、この自覚に立ち返りたい。
 米・オバマ大統領は就任演説で、「我々に求められているのは、新しい責任の時代に入ることだ」と語り、一人一人が自身や自国、世界に対して変革の責務を負うことを訴えた。
 フランスの哲学者・アランは「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」(白井健三郎訳)と。眼前の苦境を打ち破るには、挑戦の気概に燃えて、“力強い楽観主義”で生活防衛に取り組むべきであろう。
 池田名誉会長はかつて、「真の楽観主義とは、行動であり、創造です」と指導した。創価学会は、こうした強い精神性を皆が分かち持ち、“無責任な悲観主義”に陥りがちな日本の精神土壌を変革すべく、決意に燃えて、価値創造の対話運動を堂々と展開し続けてきた。
 今、その“創価の哲学”が、世界中から求められている。「池田先生の思想と哲学、また、人生や自然の捉え方は、すべての人々が学ばねばならない教えである」(モスクワ大学・サドーヴニチィ総長)。時代相が厳しければ厳しいほど、我々は価値的な行動と創造で、嵐の現実社会を乗り切っていきたい。

2009-2-20 聖教新聞 社説


 今の国民は気分や感情に流されているようにおもえます。確固たる思想哲学をもたない時代であるのではないでしょうか。マスコミが必要以上にあおればそれに流されてしまう。フワフワと浮いた風船のようである。根拠がなく自身で勉強するわけでもなく無責任な国民は多いのでは。その無責任な国民がつくったのが今の日本です。結果です。因果の法理です。一人一人が責任ある国民になるべきであるとおもう。

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2009年02月19日

「人生は強気で!」 師弟の呼吸に学べ


 伝統の2月を快進するなか、「青年・勝利座談会」が各地で行われている。
 大変な経済不況が続くが、「大変」とは“大きく変わる”とも読める。「人生は強気でいけ!」との戸田第2代会長の遺言を胸に、今こそ宿命転換のチャンスと捉え、わが使命の舞台で堂々たる実証を示していこう。
 創価学会の79年は、師の願業に弟子が“あうんの呼吸”で立ち上がり、幾多の不可能の壁を打ち破ってきた師弟勝利の歴史である。その先頭で、道なき道を切り開いてきたのが池田名誉会長だ。
 今、名誉会長は青年に「師弟不二」という人生の真髄を語り続けている。
 19歳で戸田会長と巡り会い、21歳で恩師の会社に就職。絶体絶命の危機にあった恩師の事業を、ただ一人で支え、一切の逆境をはね返していった。そして昭和26年(1951年)5月3日、第2代会長推戴の誓いを果たす。
 打てば響く師弟のリズム。翌年の2月には、東京・蒲田支部幹事として、限界突破の弘教を成し遂げた。
 「大作、お前が立ち上がってくれないか」「わかりました」
 この2月闘争を皮切りに、若き名誉会長の指揮のもと翌28年の男子部第1部隊の拡大、文京支部の大前進、“まさか”が実現した31年の「大阪の戦い」等々、最も厳しい所に不滅の金字塔は築かれていく。75万世帯の誓願を達成し、やがて300万世帯の夢も実現したのである。
 「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず」(御書900ページ)の御聖訓通り、広宣流布へ師弟の呼吸を合致させれば、必ず事は成就する。
 師の構想を実現し、その先まで勇敢に切り開いた弟子の闘争。本紙連載「若き指導者は勝った」には、こうあった。
 「歴史の事実に照らせば、こう言わざるを得まい。『戸田城聖を戸田城聖たらしめたのは、池田大作である』と」
 この偉大な師弟に連なる私たちも、一日また一日、一瞬また一瞬、自身に問いかけて進んでまいりたい。
 「わが胸に師弟の『誓願』はあるか。
 苦難を恐れぬ『闘魂』はあるか。
 人材拡大への『祈り』はあるか。
 そして、圧倒的勝利へ勇気の『行動』があるか」(広布第2幕第4回全国青年部幹部会へのメッセージ)と――。

2009-2-19 聖教新聞 社説


 

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佐渡御書 5

日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば今生に念仏者にて数年が間法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一等と笑しなり今謗法の酔さめて見れば酒に酔る者父母を打て悦しが酔さめて後歎しが如し歎けども甲斐なし此罪消がたし、何に況や過去の謗法の心中にそみけんをや経文を見候へば烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし外道は知らずして自然と云い今の人は謗法を顕して扶けんとすれば我身に謗法なき由をあながちに陳答して法華経の門を閉よと法然が書けるをとかくあらかひなんどす念仏者はさてをきぬ天台真言等の人人彼が方人をあながちにするなり、今年正月十六日十七日に佐渡の国の念仏者等数百人印性房と申すは念仏者の棟梁なり日蓮が許に来て云く法然上人は法華経を抛よとかかせ給には非ず一切衆生に念仏を申させ給いて候此の大功徳に御往生疑なしと書付て候を山僧等の流されたる並に寺法師等善哉善哉とほめ候をいかがこれを破し給と申しき鎌倉の念仏者よりもはるかにはかなく候ぞ無慚とも申す計りなし。
(御書P959・6行目〜14行目)


(通解)日蓮も過去の謗法の種子をもったものなので、今世では念仏者となって数年の間、法華経の行者を見ては「未だに成仏した者が一人もいない(未有一人得者)」「千人のうち一人もいない(千中無一)」などと嘲笑っていた。今、その謗法の酔いが覚めてみると、酒に酔った者が父母を殴って喜んでいたのが、酔いが覚めたあとに後悔するようなものである。後悔してもどうすることもできない。この罪は消しがたいのである。
 まして心中に染まった過去の謗法はなおさらである。経文を拝見すると、烏が黒いのも鷺が白いのも過去世の業が強く染み込んだためなのである。外道はそれを知らずに自然であるといい、今の人は、日蓮が謗法の罪を経文によって明らかにして助けようとすると、自分の身には謗法がないと強く言い張って、「法華経の門を閉じよ」と法然が書いていることについてさえ、あれこれと抗弁してくるのである。
 念仏者はさておき、天台宗や真言宗などの人々までが、ことさらに、念仏の味方をするのである。
 今年一月十六日と十七日に佐渡の国の念仏者など数百人、その中の印性房という者が念仏者の中心であったが、日蓮のもとに来てこのように言った。「法然上人は法華経を抛てと書かれたのではない。一切衆生に念仏を唱えさせたのである。この念仏の大功徳によって極楽浄土に生まれることは疑いないと書き記したのを、比叡山の僧で佐渡に流されている者たちや園常寺の僧たちが、『素晴らしい、素晴らしい』とほめているのに、なぜ、あなたは念仏を破るのか」と。鎌倉の念仏者よりはるかに愚かであり、恥知らずというしかない。
posted by 元 at 00:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 御書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

高慢はつねにきわめて悪い

 一、イタリアの大詩人ダンテいわく。
 「善人は常に善人と室をおなじうする」
 「咎あるものと共なるなかれ
 彼らの味方となることは嘗て智慧でなかったがゆえに」
 善人は善人とともにいるものだ。悪人と一緒になるな。悪に味方するな−詩人の戒めは時を超えて響く。
 我らは善人とともに進もう!
 フランスの哲学者デカルトは述べている。
 「高慢はつねにきわめて悪い」
 「この悪徳は、きわめて不合理なばかげたものである」
 高慢な人間は、力がないのに威張る。偉大な人に対して、尊敬できない。感謝もない。それどころか、やきもちを焼いて憎む。
 これこそ、よき世界を壊す元凶である。
 そういう人間に使われてはいけない。信用してはいけない。本質を見抜く目を持ち、利口になるのだ。

2009-2-11 新時代第26回本部幹部会 名誉会長のスピーチ 創価国際友好会館


傲慢(ごうまん)は高い自尊心、他人より重要、魅力的になりたいという欲望、賞賛をそれに値する者へ送ることの怠慢、過度の自己愛などを指す。*フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 とありますように、だれにでも少なからずあると思います。
 だからこそ、師弟が大切になってくるとおもいます。そして、不惜身命とは高い自尊心を捨てることでもあると考えます。行動の根本が師匠のため、学会のため広宣流布のためであるならば絶対にそうなるはずがありません。そして、すべての出来事や環境に感謝できるかどうかではないでしょうか。自身の中の悪である「高慢」を見抜き、広宣流布を朗らかに進めてまいります。
posted by 元 at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 傲慢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月18日

佐渡御書 4

 般泥(オン)経に云く「当来の世仮りに袈裟を被て我が法の中に於て出家学道し懶惰懈怠にして此れ等の方等契経を誹謗すること有らん当に知るべし此等は皆是今日の諸の異道の輩なり」等云云、此経文を見ん者自身をはづべし今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり、法然が一類大日が一類念仏宗禅宗と号して法華経に捨閉閣抛の四字を副へて制止を加て権教の弥陀称名計りを取立教外別伝と号して法華経を月をさす指只文字をかぞふるなんど笑ふ者は六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし、うれへなるかなや涅槃経に仏光明を放て地の下一百三十六地獄を照し給に罪人一人もなかるべし法華経の寿量品にして皆成仏せる故なり但し一闡提人と申て謗法の者計り地獄守に留られたりき彼等がうみひろげて今の世の日本国の一切衆生となれるなり。
(御書P958・16行目〜P959・5行目)



(通解) 般泥(オン)経では次のように説かれている。「来るべき世に、形ばかり袈裟を着て、仏法の中において、出家し仏道を志しているようでも、修行をなまけて精進せずに、これらの大乗経典を誹謗する者があらわれるだろう。これらの者はまさに、今日の、仏法に背く者たちと知るべきである」と。
 この経文を見る者は自身を恥じるべきである。今の末法の僧たちのように出家をして袈裟をかけながら修行をなまけて精進しない者は、釈尊と同時代の六師外道の弟子であると、仏は書き残されているのである。 法然の一派と大日房能忍の一派は、それぞれ念仏宗、禅宗と称している。念仏宗は法華経に「捨てよ・閉じよ・閣け・抛て(捨閉閣抛)」の四字を加えて正法を捨てさせ、権経の阿弥陀如来の名を称える修行だけを主張している。また禅宗は「釈尊の悟りは経文とは別に伝えられている(教外別伝)」として、法華経は月を指す指であり、法華経を読むのはただ文字を数えているようなものにすぎないなどと笑っている。こうした者たちは、六師外道の流れを汲む者が仏教の中に現れてきたものである。
 なんと嘆かわしいことだろうか。涅槃経では仏が光明を放って大地の下、百三十六の地獄を照らした時、罪人は一人もいなかった。法華経の寿量品でみな成仏したからである。ただし、一闡提人といって謗法の者だけは地獄の番人によって留められていた。彼らが源となって広がり、現在の日本国の一切衆生となっているのである。



捨閉閣抛(しゃへいかくほう)
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2009年02月17日

苦難があるから偉大になれる!

 一、戸田先生が、私たち弟子に読ませた小説『永遠の都』。
 その一節を、若い皆さんのために、ご紹介したい。
 「受難は人間の魂を浄化する聖なる炎であります」
 難が人間の魂を清めてくれる。高めてくれる。
 これが、若き革命児の確信であった。
 大聖人は“身命を捨てるほどのことがあってこそ仏になる”と教えられている(御書P831)。
 広宣流布に立ち上がった我らにも、大難は必定である。しかし、難があるからこそ、仏になれるのだ。
 だから、どんなに大変でも、これも仏になるための修行と思って頑張りなさい−。
 そう戸田先生は言われたかったにちがいない。


*仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめとをしはからる(御書P831)


2009-2-11 新時代第26回本部幹部会 名誉会長のスピーチ 創価国際友好会館



 命をこの信心のために捨てるとは、並大抵のことではないです。ですが、それを目指していきたい。師匠のため、学会のため、苦難に自ら飛び込んでいけるような境涯になりたい。
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名字の言


 各地で「伝統の2月」の座談会が始まった。「青年・勝利座談会」と掲げて行われる今回は、拝読御書である「大悪大善御書」を皆で学ぶとともに、広布第2幕を痛快に前進する青年たちの、歓喜と勝利のドラマを語り合いたい▼大分のある男子部員。昨年、突然、会社を解雇された。その後、幾つも採用試験を受けるが、すべて不合格。彼は足に障害があり、松葉づえがないと歩けない。面接会場で門前払いされ、悔し涙に暮れたこともあった▼しかし、心から希望の炎が消えることはなかった。夜は牙城会員として宝城を厳護。学会理解の対話拡大にも挑戦した。何より「人生の師匠である池田先生に、勝利の報告をしたい」と、寒風の中、祈っては何社も通い続けた▼彼の誠実な熱意が実り、64社目にして就職が決まる。待遇も前の会社以上。それこそ、拝読御書の「迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立ってをどりぬべし」(1300ページ)との心境だっただろう▼苦しみや悲しみが深いほど、勝ち越えた喜びは大きい。“大悪”とも言える逆境を、“大善”へと変えていく鍵は、強き祈りと執念の行動、そして師への報恩の心であると確信し、きょうも広布の舞台に躍り出たい。(正)

2009-2-17 聖教新聞 名字の言


 強き祈りで絶対にあきらめないで勝負したい。大悪来てこそ、本物であると確信し大善の前兆であると喜び勇んで前進してまいります。
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佐渡御書 3

 日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず不軽品に云く「其罪畢已」等云云、不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり魚鳥を混丸して赤白二・とせり其中に識神をやどす濁水に月のうつれるが如し糞嚢に金をつつめるなるべし、心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり心も又身に対すればこそ月金にもたとふれ、又過去の謗法を案ずるに誰かしる勝意比丘が魂にもや大天が神にもや不軽軽毀の流類なるか失心の余残なるか五千上慢の眷属なるか大通第三の余流にもやあるらん宿業はかりがたし鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし、我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし
(御書P958・8行目〜16行目)


(通解) また、日蓮がこのように迫害されるのも、過去世からの業がないわけではない。不軽品には「過去の罪の報いを受け終わって(其罪畢已)」と説かれている。不軽菩薩が数え切れないほどの謗法の人々に罵られ、打たれたことも過去世の業の報いであったということである。ましてや日蓮は今生では貧しく卑しい身分の者であり、栴陀羅の家の出身である。心でこそ少し法華経を信じているようであるが、体は人間に似ながら畜生の身である。魚や鳥を食べている両親の赤白二H(卵子と精子)から生まれ、その中に精神を宿している。それは、濁った水に月が映っているようなものである。糞を入れる袋の中に金を包んでいるようなものである。心は法華経を信じているので、梵天や帝釈さえも恐ろしいとは思わない。しかし、身は畜生の身である。心と体が釣り合っていないので愚者が侮るのも道理である。
 心と体を比べるからこそ、月や金にも譬えることができる。
 また、過去世の謗法を考えてみれば、だれが本当のことを知ることができようか。我が心は勝意比丘の魂であろうか。大天の魂であろうか。不軽菩薩を軽んじ罵った者たちの類だろうか。寿量品にある、謗法の毒気が深く入り、本心を失った者の残りだろうか。法華経の説法の場から立ち去った五千人の増上慢の眷属だろうか。大通智勝仏の昔に法華経に縁しても発心しなかった者たちの流れを汲んでいるのだろうか。宿業ははかり知れない。
 鉄は鍛えて打てば剣となる。賢人・聖人は罵られて試されるのである。私がこの度受けた処罰には世間における罪は全くない。専ら過去世の業の重罪を今世で消し、後生の三悪道の苦しみを免れるためのものなのである。
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2009年02月16日

仏法は証拠主義

 「仏法というのは全部、証拠主義である。証拠がなければ、観念論でしかない。それでは何の役にも立たない」
 これも、戸田先生の教えである。
 非常に深い言葉だ。明快なる証拠があるのか、ないのか。厳然たる結果が現れるのか、現れないのか。
 折伏をし、学会活動に励む。しっかり信心すれば、必ず証拠がでる。
 最後は絶対に勝利していけるのが、大聖人の仏法なのである。


2009-2-11 新時代第26回本部幹部会 名誉会長のスピーチ 創価国際友好会館



 この信心は非常に厳しいとおもいます。なぜなら、結果が厳然とでるからです。適当にやっていれば、適当な結果しか出ません。陰で手を抜けばそれも結果にでます。しかし、前向きに取り組み一生懸命心から頑張れば必ず自分の頑張り以上の結果がでます。だから、この信心は凄いとおもう。因果の法則です。道理です。自信、いい証拠を沢山残したい。
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2009年02月15日

佐渡御書 2

 宝治の合戦すでに二十六年今年二月十一日十七日又合戦あり外道悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食等云云、大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし、薬師経に云く「自界叛逆難」と是なり、仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起らん」云云、金光明経に云く「三十三天各瞋恨を生ずるは其の国王悪を縦にし治せざるに由る」等云云、日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれば聖人の如し又世間の作法兼て知るによて注し置くこと是違う可らず現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず、日蓮は此関東の御一門の棟梁なり日月なり亀鏡なり眼目なり日蓮捨て去る時七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時大音声を放てよばはりし事これなるべし纔に六十日乃至百五十日に此事起るか是は華報なるべし実果の成ぜん時いかがなげかはしからんずらん、世間の愚者の思に云く日蓮智者ならば何ぞ王難に値哉なんと申す日蓮兼ての存知なり父母を打子あり阿闍世王なり仏阿羅漢を殺し血を出す者あり提婆達多是なり六臣これをほめ瞿伽利等これを悦ぶ、日蓮当世には此御一門の父母なり仏阿羅漢の如し然を流罪し主従共に悦びぬるあはれに無慚なる者なり謗法の法師等が自ら禍の既に顕るるを歎きしがかくなるを一旦は悦ぶなるべし後には彼等が歎き日蓮が一門に劣るべからず、例せば泰衡がせうとを討九郎判官を討て悦しが如し既に一門を亡す大鬼の此国に入なるべし法華経に云く「悪鬼入其身」と是なり。
(御書P957・13行目〜P958・7行目)



(通解)宝治の合戦からすでに二十六年、今年の二月十一日と十七日にまた合戦があった。
 外道や悪人は如来が説いた正法を破ることができない。必ず、仏弟子らが仏法を破るのである。「師子身中の虫が、師子を内から食う」と説かれる通りである。同様に大果報を受けている人を、外の敵が倒すことはできない。身内によって破られるのである。薬師経で「国土に内乱が起こる(自界叛逆難)」というのはこのことである。
 仁王経には「聖人が国を去る時、七難が必ず起こる」と説かれ、金光明経には「三十三の諸天がそれぞれ瞋りや恨みを表すのは、国王が悪を放置し、退治しないためである」と説かれている。
 日蓮は聖人ではないけれども、法華経を、説かれている通りに受持しているので聖人と同じである。また、世間のありようも、あらかじめ知っていたので記しておいたが、その通りにならないはずがない。現世について言っておいたことが間違っていないことに照らして、後生について述べたことに疑いを起こしてはならない。
 「日蓮は、この関東の北条御一門にとって梁であり、太陽や月であり、鏡であり、眼目である。日蓮を捨て去る時、七難が必ず起こるであろう」と、去年の九月十二日に幕府によって捕らえられた時、大音声を放って叫んだのはこのことである。それからわずかに六十日や百五十日でこのことが起こった。しかし、これは前兆である。本当の報いが現れた時、どれほど嘆かわしいことになるであろうか。
 世間の愚者が思っているのには「日蓮が智者であるなら、どうして王難に遭うのか」などと言う。しかし、日蓮にはかねてからわかっていたのである。
 父と母を殺そうとした子がいた。阿闍世王である。阿羅漢を殺し、仏の身を傷つけ、血を出させた者がいた。提婆達多である。阿闍世王の六人の重臣はそれを褒め称え、提婆達多の弟子の瞿伽利らは喜んだ。
 日蓮は今の世にあっては、この御一門の父母であり、仏や阿羅漢のようなものである。その日蓮を流罪にし、主君も家来も共に喜んでいる。あわれで恥知らずな者たちである。謗法の僧らは、日蓮によって自らの禍が明らかになったことを以前は嘆いていたが、日蓮がこのような身となったことを今は喜んでいることだろう。しかし、後には彼らの嘆きは、今の日蓮の一門の嘆きに劣ることはない。例を挙げれば、藤原泰衡が、弟の忠衡を討ち、さらに源義経を討って喜んだようなものである。すでに北条一門を滅ぼす大鬼がこの国に入っているに違いない。法華経に説かれている「悪鬼がその身に入る(悪鬼入其身)」とはこのことである。

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今日の新・人間革命 潮流17


 行き詰まったら原点に返ることだ。唱題から出発するのだ。妙法は宇宙の根源の法なるがゆえに、妙法への祈りこそ、一切を動かす原動力となるのだ。
 ジェイ・ハーウェルたち、コンベンションのスタッフは、作業場の倉庫で、御守り御本尊に向かって、懸命に唱題した。
 州政府の担当の責任者とは、日をあらためて会うことにしていた。地元の幹部であるヒロト・ヒラタらも、誠意を尽くして、関係各所の説得に回ってくれた。
 数日後、ハーウェルらは、担当の責任者と会い、コンベンションの意義と歴史、また、SGIの目的などを説明していった。
 担当の責任者は、前回とは打って変わって、にこやかに頷きながら、彼らの話を聞いていた。意外であった。
 そして、彼らが、なんとしてもワイキキで行いたいと頼むと、「オーケー、許可します」との言葉が返ってきた。
 あまりにも、あっさりと許可が下りてしまったのである。
 彼らは喜びより、驚きの方が大きかった。
 「本当にワイキキでコンベンションを行っていいんですね」
 「はい。成功を祈っております!」
 担当の責任者は、SGIのことについて調べていた様子であった。
 そのなかで、一月に山本伸一がハワイを訪問し、州知事と会見したことなども、わかったようだ。また、州知事の力添えもあったのかもしれない。
 さらに担当の責任者は、市・郡の担当者にも電話を入れ、ワイキキでの開催を認めるように口添えしてくれた。
 “諸天善神が動いた! 題目はすごい!”
 ハーウェルたちは、確信を深めた。
 人生には、さまざまな困難や試練があるものだ。その時、“題目ですべては乗り越えられる”という、学会活動のなかで培った体験が大事になる。それが、何ものにも負けない不動の確信を生む源泉となるのである。

2009-2-15 聖教新聞



 「行き詰まったら原点に返ることだ。唱題から出発するのだ。」とありますように、われわれの信仰には行き詰まりを打破できる素晴らしい法があり師匠がいて、そして題目があります。ありがたいです。
 勇んで語ってまいります。




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2009年02月14日

佐渡御書 1


  文永九年三月 与弟子檀那 五十一歳御作

此文は富木殿のかた三郎左衛門殿大蔵たうのつじ十郎入道殿等さじきの尼御前一一に見させ給べき人人の御中へなり、京鎌倉に軍に死る人人を書付てたび候へ、外典抄文句の二玄の四の本末勘文宣旨等これへの人人もちてわたらせ給へ。
 世間に人の恐るる者は火炎の中と刀剣の影と此身の死するとなるべし牛馬猶身を惜む況や人身をや癩人猶命を惜む何に況や壮人をや、仏説て云く「七宝を以て三千大千世界に布き満るとも手の小指を以て仏経に供養せんには如かず」取意、雪山童子の身をなげし楽法梵志が身の皮をはぎし身命に過たる惜き者のなければ是を布施として仏法を習へば必仏となる身命を捨る人他の宝を仏法に惜べしや、又財宝を仏法におしまん物まさる身命を捨べきや、世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし又主君の為に命を捨る人はすくなきやうなれども其数多し男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ、魚は命を惜む故に池にすむに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむしかれどもゑにばかされて釣をのむ鳥は木にすむ木のひきき事をおじて木の上枝にすむしかれどもゑにばかされて網にかかる、人も又是くの如し世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし。
仏法は摂受折伏時によるべし譬えば世間の文武二道の如しされば昔の大聖は時によりて法を行ず雪山童子薩(タ)・王子は身を布施とせば法を教へん菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ、肉をほしがらざる時身を捨つ可きや紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし、破戒無戒を毀り持戒正法を用ん世には諸戒を堅く持べし儒教道教を以て釈教を制止せん日には道安法師慧遠法師法道三蔵等の如く王と論じて命を軽うすべし、釈教の中に小乗大乗権経実経雑乱して明珠と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は天台大師伝教大師等の如く大小権実顕密を強盛に分別すべし、畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる諛臣と申すは是なり強敵を伏して始て力士をしる、悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべしおごれる者は強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し、正法は一字一句なれども時機に叶いぬれば必ず得道なるべし千経万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず。
(御書P956〜957・12行目)


 
(通解) この手紙は、富木殿のもとへ送り、三郎左衛門殿、大蔵塔の辻の十郎入道殿ら、桟敷の尼御前、その他これを御覧になっていただくべき方々一人一人に宛てたものです。京都と鎌倉での合戦で亡くなった方々の名前を書き記して届けてください。「下典抄」「法華文句」の第2巻、「法華玄義」の第4巻とその注釈書、「勘文」や「宣旨」などを、こちらへ来られる人々は、持っておいでください。
 世間一般において人が恐れるものは、炎に包まれることと、剣をかざして襲われることと、この身が死に至ることことである。
 牛や馬でさえ身を惜しむ。まして人間であればなおさらである。不治の病にかかっている人でさえも命を惜しむ。まして健康な人なら言うまでもない。
 仏は次のように説く。「七つの宝を三千大千世界にあふれるほど敷き詰めて供養しても、手の小指を仏や法華経に供養することには及ばない(趣意)」(薬王品)と。雪山童子は鬼に身を投げ与え、楽法梵志は身の皮を剥いだ。命以上に惜しいものはないのだから、その身命を布施として仏法を修行すれば必ず仏となる。
 身命をも捨てる人が、他の宝を仏法のために惜しむだろうか。また、財宝を仏法のために惜しむような者が、それより大事な命を捨てることができるだろうか。
 世間の道理でも、重き恩に対しては命を捨てて報いるものである。また、主君のために命を捨てる人は少ないように思われるけれども、その数は多い。男は名誉のために命を捨て、女は男のために命を捨てる。
 魚は、命を惜しむため、すみかとしている池が浅いことを嘆いて、池の底に穴を掘って棲んでいる。しかし、餌にだまされて釣り針を呑んでしまう。鳥はすみかとしている木が低いことを恐れて、木の上の枝に棲んでいる。しかし、餌にだまされて網にかかってしまう。
 人もまた、これと同じである。世間の浅いことのために命を失うことはあっても、大事な仏法のためには身命を捨てることが難しい。それゆえ、仏になる人もいないのである。
 仏法においては、摂受と折伏のどちらかを実践するのかは、「時」に応じて決まるのである。譬えていえば、世間でいう文武の二道のようなものである。
 それゆえ、過去の偉大な聖人のは時に応じて仏法を修行したのである。
 雪山童子や薩(タ)王子は、「身を布施とすれば法を教えよう。その布施行が菩薩の修行にあたるだろう」と迫られたので身を捨てた。肉をほしがらない時に身を捨てるべきだろうか。紙のない時代には身の皮を紙とし、筆のない時には骨を筆とするべきである。
 戒律を破る人や戒律を持たない人が非難され、戒律を持ち、正法を行ずる人が重んじられる時代には、さまざまな戒律を堅く持つべきである。国王が儒教うや道教を用いて仏教を弾圧しようとする時には、道安法師や、慧遠法師、法道三蔵らのように、命もかえりみず、国を諌めるべきである。
 仏教の中に小乗と大乗、権教と実教、顕教と密教の違いを厳然と立て分けるべきである。
 畜生の心は、弱い者を脅し、強い者を恐れる。今の世の僧たちは、畜生のようなものである。知者の立場が弱い事を侮り、王の邪悪な力を恐れている。こびへつらう臣下とは、このよな者をいうのである。強敵を倒して、はじめて力ある者であるとわかる。
 悪王が正法を破ろうとし、邪法の僧たちがその味方をして、智者をなきものにしようとする時は、師子王の心を持つ者が必ず仏になるのである。例を挙げれば、日蓮である。
 これは、おごりによるもののではない。正法を惜しむ心が強盛だからである。おごっている者は、強敵にあうと必ず恐れる心が出てくるものである。例を挙げれば、おごり高ぶった阿修羅が帝釈に攻められて、無熱池の蓮の中に身を縮めて隠れたようなものである。
 正法は、一字一句であっても、時と機根にかなった実践をすれば、必ず成仏するのである。どれほど多くの経文や論書を習い学んだとしても、時と機根に相違していれば、決して成仏はできない。


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